今回も明治期の新聞記事からで、明治24(1891)年4月5日の「母の霊、愛しい子に添え乳」と言う記事の要約をご紹介します。
芝金杉町3丁目12番地の油屋、鈴木久米蔵の妻おたかは明治23年11月に男の子を出産したが産後の肥立ちが悪く、12月の始め頃亡くなってしまいました。夫の久米蔵は大変に悲しみながら妻の野辺送りを済ませ、懇ろに葬りました。しかしそれまで妻に手伝わせていた家業も手数が足りなくなり、赤ん防の世話が出来なくなってしまいます。
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芝金杉町 |
困りきった久米蔵はある人にいくらかの手当てを払い、子供の面倒を見てもらうことにしました。ところが子供を預かった家ではその晩から赤ん坊が火がついたように泣き続き、数日後には手におえなくて赤ん坊は久米蔵の元に返されてしまったそうです。しかし、久米蔵の家に戻ると赤ん坊は何も無かったように機嫌が直り平穏が続きました。久米蔵は赤ん坊を預けた家が手が掛かるので面倒になり返したのだと思い、新たな預け先を見つけました。しかし、ここも手におえないと返されてします。その後、幾度も預け先を変えましたがその都度、赤ん坊は夜になると火がついたように泣き、手におえないと言って返されてしまうので、ついに久米蔵は赤ん坊を預けるのを諦めて、自分で育てる決心をしたそうです。すると赤ん坊は何事も無かったかの様に夜もおとなしくなりました。
ある晩、久米蔵は赤ん坊を寝かし付けてから店をかたずけて、再び家に戻ってみると赤ん坊の横には亡くなった妻のおたかが、添い寝して乳をあげています。驚いた久米蔵が大きな声を出すと、近所の人たちが何事かと集まってきました。そこで、久米蔵が今までのいきさつを話すと、これまで赤ん坊を他家に預けてもすぐに泣き出してしまったのは、おたかが我が子を育てようとした一念であったのだろうと近所の大評判となったそうです。