ヒュ-スケン事件
麻布近辺は江戸末期から外国の施設が多くありました。高輪東禅寺に英国公使館、三田済海寺にフランス公使館、麻布仙台坂の春桃院にプロシア(後のドイツ)公使館、芝西応寺・伊皿子長応寺にオランダ公使館、そして麻布山善福寺にはアメリカ公使館がありました。
万延元年(1860年)3月、前年の安政大獄が原因となる桜田門外の変で、井伊大老が暗殺されると、攘夷の思想が横行して外国人への襲撃、焼き討ちなどが相次きます。
同年12月には、アメリカ公使館通訳ヒュ-スケンが暗殺されました。ヒュ-スケンは、アムステル生まれのオランダ人で、アメリカに帰化し志願しアメリカ公使ハリスの書記兼通訳として来日します。年俸1,500ドル、ハリスの信任が厚く代理も務めたので攘夷派から憎まれることとなります。
万延元年十二月四日(西暦:1861年1月14日)、幕府からの要請で、赤羽橋の接遇所でプロシア使節との交渉通訳を終えたヒュ-スケンは、馬に乗り中の橋の前あたり(東麻布イースト商店街入り口辺)まで来たところ、 物陰から抜刀した武士達が斬りつけてきます。護衛の武士は役に立たず、ヒュ-スケンは斬られて重傷を負います。
近隣の人の知らせを受けた善福寺用人らが戸板に乗せて同寺内の宿舎であり、愛人のお鶴も住む善光寺に運び医師の手当てを施したが、まもなく死亡しました。葬儀は同寺でアメリカ公使ハリスにより行われ、イギリス、フランス、オランダ、プロシャの代表が参列しました。 しかし、善福寺は土葬が禁止されていたため、慈眼山光林寺に埋葬されます。この光林寺には約1年前の安政七年一月七日(西暦:1860年1月29日)にイギリス公使館である高輪東禅寺の門前で刺殺されたイギリス通訳官の「伝吉」が埋葬されています。
このヒュースケン暗殺事件の犯人は、薩摩藩士牟田尚平とも攘夷派の巨頭清川八郎ともいわれますが、謎のまま清川八郎も、三年後に一の橋の際で暗殺されることとなります。
そして、この事件前後も襲撃、焼き討ちなどが相次ぎます。
- 安政6年(1859年)横浜でロシア軍艦乗員2名暗殺。
- 万延元年(1860年)オランダ商船長デ・ボスら2名、横浜で殺害。
- 同年5月28日、漂流漁民からイギリスに帰化し、オルコックと来日した通訳の伝吉、刺殺。
- 文久元年(1861年)4月2日、高輪東禅寺英国公館が水戸浪士により襲撃焼き討。
- 同2年8月、生麦事件によりイギリス人殺害。
事件後幕府はハリスの請求によりオランダにいるヒュ-スケンの母親に洋銀10,000ドルを支払います。しかし ヒュ-スケン事件を幕府の面子をたて、賠償だけで穏便に解決したハリスも、文久2年(1862年)アメリカの外交方針変更により解任され帰国の途につきます。
次回はヒュースケン事件そのものの詳細をお伝えします。
◎Blog DEEP AZABU-ヒュ-スケン事件-その2
https://deepazabu.blogspot.com/2013/03/blog-post_28.html
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