前回アメリカ公使通訳の暗殺、ヒュースケン事件をお伝えしましたが、今回はその続編をお伝えします。
事件があった万延元年十二月四日(西暦:1861年1月14日)、 ヒュースケンはアメリカ公使の通訳の他に、1860(安政7)年7月23日から芝赤羽接遇所に滞在中のプロシア使節オイレンブルグ と幕府との折衝の通訳・案内・相談役として多忙な日を送っていました。
慈眼山光林寺
当日のヒュースケンは、江戸城の周りを馬で廻って午後6時頃接遇所に到着し、プロシア使節らと夕食を摂ります。その後8時半頃まで雑談に興じた後、3名の騎馬役人、従僕ら4人、馬丁2名と共に善福寺への岐路につき、中の橋辺で襲撃にあいました。
幕末異人殺傷録(宮永孝著) にはその襲撃場所が確定されており、襲撃地点は中の橋戸沢上総頭取組合辻番所でそこには「多数の血溜りあり」と記されて います。また「200ヤードばかり走ったところで落馬」とあり京極佐渡守中屋敷前には複数の血溜りが記されています。翌6日午前 0時半頃に死亡し、死因は襲撃時に受けた腸を切断するほどの深手による失血死であったそうです。
事件を聞いて真っ先に駆けつけたのは外国奉行小栗豊後守(のちに上野介)忠順で、ハリスに弔辞を述べると検死を行い 刀傷などを調査した後、深く心を動かされた様子で犯人逮捕を確約しました。 また、その朝には外国奉行ら4名(村垣淡路守・竹本図書守・高井丹波守・滝川播磨守)もハリスを弔問し、犯人逮捕を確約します。 これに対しハリスは犯人逮捕を促す措置として、犯人を訴えた者には250両の賞金を出す事を表明しました。
ヒュースケンの葬列
12月8日午後1時麻布光林寺において、幕府から再度の襲撃を予想してのハリス欠席要請を拒否してヒュースケンの葬儀が行われました。 亡骸はアメリカ国旗で包まれ、オイレンブルグがティーティス号船上で造らせた棺に納められて、善福寺に安置された。そして 8名のオランダ水兵(ヒュースケンはオランダ生まれであるため)に担がれて光林寺へと向かいます。
葬列は、
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- 外国奉行(新見豊前守・村垣淡路守・小栗豊後守・高井丹波守・滝川播磨守)各自に長い供周りと護衛
- 米国・英国・フランス・オランダ・プロセインの弔旗。プロセイン水兵が捧載し、プロセイン海兵隊員6名が護衛
- プロセイン・フリゲート艦アルコナ号軍楽隊
- オランダ、プロセイン海兵隊護衛
- 日本教区長ジラール神父、外科医シルウス
- 遺体(オランダ海兵隊員8名で担う)
- 喪主オランダ総領事デ・ウィット、米国総領事ハリス
- 英国公使オールコック、フランス総領事ベルクール、プロシア全権大使オイレンブルグら各国公使
- 各国領事
- 各国代表部随員
- オランダ軍、プロセイン軍士官
と、荘厳な列となり光林寺へと向かいます。
沿道は好奇の目を持った群集であふれましたが警戒していた浪士の襲撃は行われず 、棺は無事に光林寺へ到着します。
山門から墓地に到着した棺はジラール神父の祈祷の後にプロシア軍楽隊の「イエスはわが信」 に送られて会葬者が各自一握りの土を穴に投げ入れます。その後光林寺住職により和式の葬儀も行われ葬儀は無事に終了しました。
葬儀翌日の12月9日にはイギリス公使館のある高輪東禅寺にハリス(米国総領事)、オールコック(英国公使)、ベルクール(フランス総領事)、オイレンブルグ(プロシア全権大使) 、デ・ウィット(オランダ総領事)らが集まり、幕府への抗議の意味から事件解決と賠償が確定するまでの間、各国公使館を横浜に移転 する事が決められました。しかしハリスはこの決議に反対で、ヒュースケン殺害事件は個人的な恨みによるもので外交問題とは 無縁であるとして江戸退去を拒否し、善福寺から星条旗が下ろされることはありませんでした。(オイレンブルグも条約締結中であった ため、江戸滞在を続けました。)
襲撃犯については幕府の必死の探索にもかかわらず迷宮入りとなりましたが、幕府の報告書には「武家方侍四、五人」、ハリスは本国への 報告書で「7名」としています。そして襲撃犯について現在では攘夷派の薩摩藩士伊牟田尚平、樋渡清明、神田橋直助らの犯行というの が定説のようですが、伊牟田尚平は清河八郎が主宰した「虎尾ノ会」発起人にも名を連ねており、現在は清河八郎がこの暗殺を主導したと考えられています。 また事件の首謀者については、事件から半年後にシーボルトと共に江戸に来た長男のアレクサンダーは、
私は2、3年後に聞いたのだが、下手人は一人の名の通った浪人だったが、この男もほとんど同じ場所で別の浪人の手に かかって殺されたというのは不思議な事である。
と、後年「ジーボルト最後の日本旅行」に書き残しています。(アレクサンダーは父フィリップ・フォン・シーボルトが離日した後も 英国公使館通訳官として江戸に滞在します。)これは明らかに赤羽橋付近における「清河八郎 殺害事件」をさしていると思われます。
父フィリップ・フォン・シーボルトはヒュースケンが殺害された事を当時滞在していた長崎で事件の 詳細を聞き知っており、江戸に到着するとすぐに頻繁にアメリカ公使館にハリスを訪問しています。そして5月22日には麻布山善福寺のハリスを訪問後に光林寺の ヒュースケンの墓・英国通訳官伝吉の墓参をしています。
慈眼山光林寺ヒュースケン墓碑
墓碑の碑文
(和訳)
日本駐在アメリカ公使館付通訳ヘンリック・ヒュースケンの御霊に献ぐ。
1832年1月20日アムステルダムに生まれ、1861年1月16日江戸にて死去
※碑の撰文ははハリスが行い日本人の石工が作成した。文中ヒュースケンの名を「HENRYC」 としているが、これは誤りではなくヒュースケンの洗礼名「Henricus」を音訳した名とのこと。
※幕府崩壊の様子を描いた手塚治虫のコミック「陽だまりの樹」はハリス、ヒュースケン、善福寺(主人公が善福寺住職の娘に恋をします)も頻繁に登場します。是非ご一読をお勧めします。
◎Blog DEEP AZABU-ヒュースケン事件
https://deepazabu.blogspot.com/2013/03/blog-post_27.html