1863年の東禅寺門前 |
その日の午後、イギリス公使オルコックはアメリカ公使ハリスを見舞い、公使館のある高輪東禅寺の自室に戻るとロ-バック号艦長マ-チン大佐が、
「通訳が重傷を負って運ばれてくる」
と告げます。
戸板で運ばれてきた伝吉は虫の息で、傷を調べようと服を脱がした時息を引き取ったそうです。
この日は日曜日『陽暦1860年1月29日(日)』で伝吉は、公使館前の家の戸口に寄りかかり子供などが遊ぶのを見ていました。その時背後から2人の編み笠をかぶった武士が近づき、伝吉の背中に短刀を突き刺します。伝吉は突き刺されたまま門番の所までよろよろ歩くと、驚いた門番はすぐに短刀を引き抜きました。しかし伝吉の傷は深く、切っ先が胸から突き出すほど深く刺さり、伝吉はそのまま倒れます。
現在の東禅寺 |
「彼は誰かに殺されるだろう」
といっていました。また副業でラシャメン(外人の妾)を斡旋していたともいわれ、これらの事により日本人にたいそう怨まれていたそうです。
このように日本人に恨まれたあげく殺害されてしまった伝吉の葬儀は、一月十日麻布光林寺で各国公使館員、外国奉行2名らの会葬で行われ、同寺に埋葬されました。そして彼が埋葬されてから1年後、同じ墓地にヒュ-スケンも埋葬される事にまります。
そもそも、10年近く外国を流浪してやっと帰国した日本でその後七ヶ月で暗殺されてしまった伝吉は、摂津国大石村松屋八三郎の持船「栄力丸」(1,600石)の賄方でした。
この船は嘉永三(1850)年に酒、砂糖、荒物などを江戸に運び、帰途浦賀で大豆、あずき、小麦、くるみ、鰯粕などを積み入れ志摩国大王崎に達します。
しかし、10月29日の夜半から風雨が激しくなり西方に流されたため、船中の物は相談の上帆柱を切り捨て、乗員は全員髪を切り神仏にすがります。
11月1日風が西風に変わり、船は12月4日まで東南の方向に漂流します。積み荷が米穀であったため食糧の心配は当分ありありませんでしたが、薪、水 味噌、醤油などが残り少なくなってきました。そしてこの船は、アメリカ帆船オ-クランド号に発見されるまでの53日間に9回の暴風雨に遭い その内3回は大暴風雨であったそうです。この「栄力丸」乗員17名の詳細は以下。
No. | 役 | 名 前 | 年 齢 | 生 国 | そ の 後 |
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1 | 船頭 | 万蔵 | 60歳 | 播州加古郡 宮西村 | サンフランシスコからハワイ島に向かう船中で病死。同島に埋葬。 |
2 | 舵取 | 長助 | 49歳 | 摂州八部郡 神戸 | 帰国。 |
3 | 賄方 | 浅五郎 | 34歳 | 播州西本庄 | 帰国。 |
4 | 同 | 甚八 | 36歳 | 同 | 帰国。 |
5 | 同 | 幾松 | 37歳 | 摂州八部郡 神戸 | 帰国。 |
6 | 同 | 喜代蔵 | 32歳 | 播州東本庄 | 帰国。 |
7 | 同 | 清太郎 | 28歳 | 播州西本庄 | 帰国。 |
8 | 同 | 徳兵衛 | 29歳 | 備中浅口郡 勇崎村 | 帰国。 |
9 | 同 | 京助 | 31歳 | 讃州安治浜 | 長崎到着後揚り屋にて病死。 |
10 | 同 | 次作 | 27歳 | 播州西本庄 | 広東の金星門からアメリカ蒸気艦サスケハナ号でアメリカへ。 |
11 | 同 | 安太郎 | 26歳 | 播州加古郡 宮西村 | 浙江省平湖の乍浦より帰国の途次、薩州樺島沖にて病死し、長崎大音寺に埋葬。 |
12 | 同 | 民蔵 | 26歳 | 伊予国岩木浦 | 帰国。 |
13 | 同 | 亀蔵 | 22歳 | 芸州因之島 むくみ浦 | 広東の金星門からアメリカ蒸気艦サスケハナ号でアメリカへ。 |
14 | 同 | 伝吉 | 22歳 | 紀州加茂郡塩津 | 浙江省平湖の乍浦より出奔。のちイギリス公使館通弁。 |
15 | 炊方 | 仙太郎 | 18歳 | 芸州瀬戸田 | 上海にてサスケハナ号に一人とどまる。のちの「サム・パッチ」 |
16 | 茶汲 | 彦太郎 | 15歳 | 播州東本庄 | 広東の金星門からアメリカ蒸気艦サスケハナ号でアメリカへ。のちの「ジョセフ・ヒコ」(浜田 彦蔵)。 |
17 | 表方 | 利七 | 27歳 | 伯州長瀬村 | 帰国。 |
この船には後にジョセフ・ヒコと呼ばれることとなる浜田 彦蔵も茶汲みとして乗船しており、やがて共に苦難を経験をすることとなります。
伝吉、ヒュースケンなどが眠る慈眼山 光林寺 |
伝吉墓碑 正面 |
墓碑正面文面(英語) |
墓碑裏面 戒名 |
墓碑裏面の戒名 |
伝吉と同じ栄力丸で遭難し苦難の末帰国した ジョセフ・ヒコこと浜田 彦蔵の墓 (青山墓地内・外人墓地) |
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