しばらくすると、向こうの船でも栄力丸に気が付き、やがて近づいてボ-トをおろして17名全員が救助されました。
彼らを救助したのはアメリカの帆船「オ-クランド号(乗員11名)」で、43日かけて嘉永4年2月3日(1851年3月5日)サンフランシスコに入港します。その後、栄力丸乗組員たちは税関用船ポ-ク号の作業員となり約1年間を過します。その間生活必需品はすべて供与され、健康のためサンフランシスコへの上陸、市内見物も許可されます。しかし望郷の念から帰国の希望を役人に伝え善処を約束されたが、当時日本は鎖国中でアメリカと国交を結んでいませんでした。
嘉永5年2月21日(1852年3月31日)、遂に念願がかない帰国の許可が合衆国政府からおりた一行17名は、軍艦「セントメリ-号」で帰国の途につきます。合衆国政府の意向では一行をまず香港に送り、そこでペリ-の日本遠征艦隊に同行させるつもりであったようです。
嘉永5年閏2月14日(1982年4月3日)補給のためハワイ島ヒロ湾に投錨し、入港直前かねてから診療を受けていた船頭の万蔵が病死したので「南無阿弥陀仏日本万蔵」と記した板を墓標にハワイ島の共同墓地に葬ります。投錨後9日目に再び出港したセントメリ-号が香港入港したのは嘉永5年4月2日(1852年5月20日)であったそうです。
嘉永5年4月2日(1852年5月20日)香港に到着し、アメリカ東インド艦隊の旗艦「サスケハナ号」(2,450トン、乗員300名)に移乗した一行16名はその船で約半年を過ごしましたが、次作、彦太郎(彦蔵)、亀蔵の3人はアメリカに戻る事になります。これ以降の3人については作家の吉村 昭氏の「アメリカ彦蔵」を参照してください。余談ですが、サスケハナ号は後年黒船艦隊ペリー提督の乗船する旗艦として浦賀に来港します。
13人になった一行は中国内を何度か往復し、その間山賊に遭ったり他の日本人漂流者(乙吉、力松)らと出会ったりしましたが、生活の場は サスケハナ号でした。しかし一行はアメリカ軍艦で帰国すると、アメリカの手先になり軍艦を日本に導いたと幕府に思われる事を恐れ、嘉永6年3月1日(1853年4月8日)、元炊方の仙太郎を残し、12名が艦長から暇を取りつけ下船しました。
下船した12名は、上海にあるデント商会の番頭格で日本人の乙吉の家に身を落ち着けます。そして乙吉の好意でデント商会に職を得ましたが、アメリカの日本遠征艦隊のミシシッピ号が上海に入港し再び彼らを連れ戻そうとしたので、嘉永6年4月21日(1853年5月27日)一行は約100キロ離れた乍浦(チ-フ-)に向かいます。
乍浦到着後に現地の役人から通訳・付き添いなどが付けられ生活を始めましたが、外出は自由ではなかったようです。ここからは長崎へ往復する船が出ているため一行はチャンスを待ちました。
年が変わって嘉永7年2月21日(1854年3月20日)、伝吉は置き手紙をして突然一行の前から姿を消してしまいます。理由は一向に帰国の許可が下りず、食事も合わないのでこのままでは病気になると思い、どこでもよいから安住の地を見つけるためと書き置きにあったそうです。
しかし、皮肉な事に6月になると役所から帰国の許可がおり、嘉永7年7月10日(1854年8月3日)伝吉を残した一行11名は中国船源宝号で帰国の途に就きました。そして27日(8月20日)念願の長崎に到着します。
一行と別れてからの伝吉の事は、あまり判っていないようです。上海に戻ったのち那覇をへて再びホンコンに行き、ここでペリ-の率いるアメリカ軍艦に乗船を請い許されます。船員達からDan-Ketchと呼ばれた伝吉は非常な才能と熱心な知識欲を見せ、ペリ-からも保護を受け可愛がられました。
アメリカ到着後の行動はまったく分からないようですが、その後再び香港に渡りそこでオ-ルコックと知り合って駐日イギリス公使館付け通訳官という英国外交官随行員の地位を得ます。そして安政6年6月26日(1859年5月26日)、イギリス公使オ-ルコックを乗せた軍艦サンプソン号が江戸に到着すると、その随員の一人として英国籍を手に入れた伝吉が乗船していました。
攘夷の嵐が吹き荒れる日本を約10年ぶりに見た彼はどう思ったでしょう。江戸到着からわずか7ヶ月で刺殺された彼は、その短い間にすっかり日本人から嫌われたそうです。これは驕慢な性格(永い放浪生活で培われた?)からといわれるようですが、もう一つ外国役人に素人娘のラシャメンを斡旋する仲介を行ったため日本人女性を夷狄に売り渡す売国奴として嫌われたともいわれています。
伝吉は三田の口入れ屋「三田屋」、「田原屋」、「町田屋」などに異人館に奉公する娘を探す事を依頼し、三田の蕎麦屋「鶴寿菴」の娘お花、本芝妙法院の娘お香乃の2人を見つけ出します。
2人とも道楽娘のうわさがあり又両家とも金銭的に窮乏していたので、話はすぐにまとまります。しかし、ラシャメンになる事を愚痴ったお花の言葉が、彼女に恋心を抱いていた野州浪人桑島三郎の耳に入り、激怒した桑島三郎が伝吉に天誅を加える目的で殺害したといわれています。
伝吉の死後(文久元年5月28日、1861年7月5日)水戸の浪士らがイギリス公使館を襲撃した際(第一次東禅寺襲撃事件)、若い娘の斬殺された死体が二つ見つかります。そして、この死体はおそらくお花とお香乃ではないかといわれています。
西 暦 | 和 暦 | 事 件 | 場 所 | 備 考 |
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1858年7月29日 | 安政五年 六月十九日 | 日米修好通商条約締結 | ||
1859年7月4日 | 安政六年 六月五日 | 神奈川開港 | ||
1859年7月7日 | 安政六年 六月八日 | アメリカ公使館が麻布山善福寺に開設 | ||
1859年8月4日 | 安政六年 七月六日 | シーボルトが二度目の来日。長男アレクサンダーと共に長崎に到着 | ||
1859年8月25日 | 安政六年 七月二七日 | ロシア海軍軍人殺害 | 横浜波止場 | 海軍少尉ロマン・モフェトと水兵イワン・ソコロフおよび1人のまかない係が水戸天狗党に襲撃される。外国人殺害事件の始まり |
1859年11月5日 | 安政六年 十月十一日 | フランス領事館従僕殺害 | 横浜外国人居留地 | フランス副領事ジョゼ・ルーレイロの中国人従僕が洋服を着ていたため西洋人と間違われ殺害 |
1860年1月29日 | 安政七年 一月七日 | 伝吉刺殺 | 東禅寺英国公使館 | 漂流漁民からイギリスに帰化し、オールコックと来日した通訳の伝吉が公使館門前で刺殺 |
1860年3月24日 | 安政七年 三月三日 | 桜田門外の変 | 江戸城桜田門外 | 大老井伊直弼暗殺 |
1861年1月14日 | 万延元年 十二月四日 | ヒュースケン暗殺 | 麻布中の橋際 | 馬上で襲撃される |
1861年6月18日 | 文久元年 五月二十一日 | シーボルトが長男アレクサンダーと共に江戸に到着し赤羽接遇所に滞在 | ||
1861年6月19日 | 文久元年 五月二十二日 | シーボルトが麻布山善福寺アメリカ公使館のハリスを訪問後に光林寺でヒュースケン、伝吉の墓参り | ||
1861年7月5日 | 文久元年 五月二十八日 | 第1次東禅寺事件 | 東禅寺英国公使館 | 水戸浪士14名が江戸高輪東禅寺のイギリス公使館を襲撃 |
1862年2月13日 | 文久二年 一月十五日 | 坂下門外の変 | 江戸城坂下門 | 尊攘派の水戸浪士6人が老中安藤信正を襲撃し負傷 |
1862年6月26日 | 文久二年 五月二十九日 | 第二次東禅寺事件 | 東禅寺英国公使館 | 東禅寺警備の松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス兵2人を斬殺した事件 |
1862年9月14日 | 文久二年 八月二十一日 | 生麦事件 | 横浜近くの生麦村 | 島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人4人に対し、供回りの藩士が斬りつけ、チャールス・リチャードソンが死亡、ウッドソープ・クラークとウィリアム・マーシャルの2名が重傷を負った。この賠償交渉がもつれ、薩英戦争が勃発した。 |
1863年1月31日 | 文久二年 十二月十二日 | 英国公使館焼き討ち | 御殿山 | 隊長:高杉晋作、副将:久坂玄瑞、火付け役:井上聞多、伊藤俊輔、寺島忠三郎、護衛役:品川弥二郎、堀真五郎、松島剛蔵、斬捨役:赤根武人、白井小助など |
1863年5月23日 | 文久三年 四月六日 | 麻布山善福寺で不審火 | 麻布山善福寺 | 攘夷派浪士の付け火とおもわれる火事が発生。庫裡、書院などが焼失するも公使館員に被害なし。 |
1863年5月30日 | 文久三年 四月十三日 | 清河八郎暗殺 | 麻布一の橋際 | 幕府の刺客、佐々木只三郎・窪田泉太郎など6名により暗殺 |
1863年6月25日 | 文久三年 五月十日 | 馬関海峡封鎖砲撃 | 馬関海峡 | 幕府が調停に対して設定した攘夷期限。長州藩が馬関海峡を封鎖し、航行中の米仏蘭艦船に対して無通告で砲撃を加えた |
1863年8月 | 文久三年 七月 | F.ベアトがスイス使節団の臨時随行員として江戸市中を撮影し、麻布辺も撮影する。 | ||
1863年8月15日 | 文久三年 七月二日 | 薩英戦争勃発 |
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