忠義者の命
江戸時代、明和の頃に下総古河(現茨城県)に次郎右衛門という大百姓がいました。その一人息子の治郎吉は怜悧な子供でしたが年頃になると病気勝ちとなり、ついに労症(うつ病)となって毎日を鬱々と過ごしていました。
両親や、はてには親戚までも心配して相談した結果、気分転換に家の出店もある江戸の橘町に住まわせてみる事になったそうです。初めて暮らす江戸の街。まして両国や日本橋の盛り場にも近い橘町の店に腰を落ち着けた治郎吉は次第に元気を取り戻し番頭に仕事は任せっきリで、やがて仲間と吉原通いが常となります。
しばらくそんな生活を続けると店の帳簿に大きな穴があき、親の次郎右衛門にも露見してしまいます。病の為にと出した江戸で放蕩三昧を決め込んだ息子に激怒した次郎右衛門は、治郎吉を即刻古河に呼び戻すと自宅の座敷牢に入れてしまいました。そしてしばらくはそのまま捨て置かれたそうです。
しかし、日が経つにつれ再び青白い顔でふさぎこんでしまった息子を心配した母親が親戚一同に訴えてまわり、やっとのことで牢から出ることが出来た治郎吉は、相変わらず冴えない顔色で鬱々と日々を送りました。
「やはりここよりも江戸の方が合うのかねえ」
との母親の気遣いにうなずいた治郎吉には病気とは別の病がありました。それは江戸を離れてから逢えなくなってしまった吉原の遊女・半蔀(はじとみ)への恋心です。ますます暗く沈んで行く治郎吉に病の原因がわからない両親は、遂に「このままでは一人息子を見殺しにすることになってしまう」と息子を再び江戸に出すことを決めます。
再び江戸に戻れた治郎吉は今までを悔い改め、半蔀(はじとみ)の事も忘れて率先して仕事に精を出したそうです。やがて両親や親戚ももう大丈夫と思った頃、仕事三昧だった治郎吉を昔の悪友が吉原に誘います。
一度くらいはと気を許した治郎吉は再び吉原の門をくぐり、懐かしい半蔀(はじとみ)のもとへ.......。気がつくと再び放蕩三昧の吉原通いが始まっていました。しかし、しばらくして様子を見に来た父親の次郎右衛門に見つかり、今度はいきなり勘当されてしまいます。
困った治郎吉は通いなれた吉原の傍を歩いてなじみの茶屋や船宿に援助を求めましたが、「勘当」が知れ渡っていて誰も相手にしてくれません。途方に暮れていると座敷に何度か呼んだ事のある幇間の義兵衛が自宅に呼んで、吉原に入る手はずと1両の金を工面してくれた。
やっとのことで半蔀(はじとみ)と再会した治郎吉はここで意外な事を聞きます。半蔀(はじとみ)は治郎吉が勘当されて仕事も無く無一文を承知で自分が吉原を足抜けして養うといます。
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江戸末期の麻布市兵衛町・我善坊辺 |
この言葉で目の覚めた治郎吉は親身になって心配してくれる幇間の義兵衛の援助を断り、まっとうな商売につくために、昔店で雇っていた長八という者を訪ねました。
相談を受けた長八も援助を申し出、まずは、「住まいが決まるまではここにいてください。」と麻布市兵衛町にある自分たち夫婦の貧乏所帯に同居させました。半蔀(はじとみ)も幇間の義兵衛に助けられて命を賭けて吉原を脱出し、長八の長屋へと落ち着きました。気の良い長八夫妻は嫌な顔一つせずに二人の面倒をみましたが、元々の貧乏所帯に食い扶持が増して、どうにもならなくなってしまったそうです。
長八の妻は元の奉公先の若旦那の一大事とあっては遊女屋へ身売りも覚悟したが、歳がゆきすぎているために諦め、あれこれ探した挙句にやっと御先手組の与力の屋敷で身の回りの世話をすることと決まります。この「御先手組の与力の屋敷」は後に我善坊町となる地域で現在の港区麻布台一丁目辺」。しかし、この時に前金でもらった二両二分もたちまち生活費と消えてしまいました。
二人の居候を抱えた長八はそれでも何とか治郎吉の役に立ちたいと、最後には追い詰められて泥棒を思いつきます。ある日の夕方山の手に用足しに行って来ると家を出た長八は夜通し牛込、市谷あたりの武家屋敷を歩きましたが、素人に忍び込めそうな屋敷は一軒も無かったそうです。
疲れ果ててある屋敷の前に来ると、不思議なことに塀に梯子が立て掛けてある。植木屋の忘れ物かとおもっていると、屋敷の中から大きな包みを担いだ男が降りてきた。本物の泥棒です。そして長八はとっさの思いつきで梯子を倒しました。慌てた泥棒は逃げようとしたが長八はその泥棒の前に回り手をついて頼みました。
「おれはご主人様にご恩返しするために、どうしても金がなくては義理が立たないんだ。死ぬ覚悟で盗みに 入ろうとしていたんだ。ここで泥棒に会えたのは有難い。たぶんお前は金も盗んだろうから、それを貸してくれないか?頼むから貸してくれ!」
「とんでもねえ事を言うぜ」
「本当なんだ。この通り頭を下げて頼む」
「ちょっと待ってくれよ。涙を流して頼まれたんじゃ、こちとらも困る。まあ、向こうへ行って話そうじゃねえか」
屋敷の前で話も出来ないので二人は土手まで歩き、長八は改めて身の上を話した。
「お前さんは忠義者なんだねぇ。感心したぜ」
「感心はいいから、金を貸してもらいてぇ」
「待ちなよ。あの屋敷からいくら盗んだのか、まだ数えてもいねぇ」
「全部でいいよ」
「勝手を言うなぃ。いいからこれを取っておけ」
放り出した小判の音がチャリンと鳴り、長八は慌てて拾い集めた。
「いづれ若旦那は勘当が許されるだろうから、その時は倍にして返すよ」
「まあいいさ」
「住所と名前を教えとくれ」
「泥棒に住所があるものかい」「名前は」
「名前を名乗る泥棒がどこにある。どうせその内に捕まってお仕置きにあうんだから、礼を言ってくれる事もねえよ」
「たとえ泥棒でも、恩人は恩人だ。恩返しは必ずする」
「それほど言うなら、こうしようじゃねえじか。おれはいづれ首を刎ねられるから、今日を命日と思って線香でも立ててくれ。それでいいよ」
そう言ってさっさと帰って行く。長八は気が済まないから、
「おい、待ってくれ。おい、泥棒」
「ばかやろう。大声で泥棒と呼ぶんじゃねえ」
貰った金を数えると三五両の大金であったそうです。泥棒が消えた方に頭を下げると、あたりが急に騒がしくなってきました。泥棒が屋敷に火をかけてきたらしい。こんな所にいて役人に見咎められたら危ないと歩き出すと、早速前から来た侍に声をかけられ何をしていたのかと詮議されたが片袖をちぎられながらも隙をついて逃げ出しました。これで若旦那にも少しは楽がしてもらえる...............。
翌日長八は近所に豆腐を買いに出ました。すると侍が長八を呼び止めます。
気がついてみると長八は昨夜のままの片袖がちぎれた着物を着たままだった。その侍はちぎれた袖を持って街中を見張っている火附盗賊改の与力で笠原という者であったようです。その場で長八は取り押さえられ、この知らせは橘町の出店にも届き、驚いた番頭は早速、半蔀(はじとみ)と治郎吉を引き取りこれまでのいきさつを聞きました。
長八の忠義を聞いた番頭は早速古河に知らせ、主人の次郎右衛門もすぐさま江戸に出て長八の無実をに訴えるためお役所に日参します。そしてそれのみならず、神仏にも願をかけて長八の無事を祈った。しかし、拷問など厳しい取り調べを受けた長八はとうとう犯行を自供してしまいます。
この取り調べをし、また長八を捕まえた火附盗賊改与力の笠原は何と長八の女房が金の為に奉公に上がっていた屋敷の主人で、笠原は少し歳は行っているが美形であった長八の女房を我が物とするために、長八を無理に自白に追い込んでいたのでした。
屋敷に帰った笠原は亭主の長八が自供した事を女房に告げ、自分のものとなれば罪を手加減しようと持ちかけた。しかし何とかその場を逃れた長八の女房はその足で北町奉行所の依田豊前守の元に駆け込み、事の仔細を訴えました。これにより笠原の悪事は露見し、即刻改易。またその上司もお役御免となったそうです。そして捜査をやり直してみると、あの長八が出会った泥棒はすでに捕まっていて罪を一切自供していました。
瀕死の状態で牢から出た長八はその後、忠義の厚さを重んじた主人の次郎右衛門に引き取られ古河で使用人の頭となったそうです。また半蔀(はじとみ)も正式に吉原から身請けして、晴れて治郎吉と夫婦となりました。
その他この件で迷惑をかけた人たちにも、丁重に礼をして一件は落着したといいます。その後も、この一家は栄えて今日(江戸中期)に」至っているといいます。
そして、この話は治郎吉本人がずっと後に話した事を江戸の町奉行であり死後六本木一丁目の善学寺に葬られた「耳嚢」の著者(根岸鎮衛)が聞いて書いたといわれ、「耳嚢」のなかでも最も長い話となっています。
耳嚢での原題は「実情忠臣危難をまぬがるる事」としているこの話の一部は、落語の人情噺「※雪の瀬川」で使用していますが、話の大筋は実話であったようです。
※落語の前編は「松川屋瀬川」、後編は「雪の瀬川」と題されています。
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