2013年4月6日土曜日

高輪の大仏(おおぼとけ) -切支丹の聖地


前回まで二回にわたり高輪の大仏(おおぼとけ)と呼ばれた如来寺とその周辺についてお伝えしてきましたが、資料を調べているうちに一つの疑問がわきました。
高山神社 おしゃもじさま

三田の聖坂あたりから品川駅前の高輪石榴坂あたりまでの尾根沿いの道(高輪の語源にもなったいわゆる高い縄手道で古奥州道・鎌倉道といわれています)には、寺院が多く存在することはよく知られています。しかし、これらの寺院の中でキリシタンの遺物とも伝わる「切支丹灯籠」などが点在していることはあまり知られていません。
魚籃坂上伊皿子交差点付近にある等覚寺には南蛮寺由来と伝わる西洋小鐘と切支丹灯籠があり、幽霊地蔵で有名な桂坂付近の光福寺には切支丹灯籠があり、品川駅前の高山神社境内に祀られている通称「おしゃもじさま」も切支丹灯籠であるといわれています。

品川駅前にある高山神社の境内にある石灯籠は通称「おしゃもじさま」とよばれ縁結びの神として祀られていますが、港区教育委員会の解説板によると、


港区登録有形民俗文化財
石燈籠(おしゃもじさま)
平成6年(1994)3月22日指定

「おしゃもじさま」は、縁結びの神として祀られているが、その名の由来はわかっていない。

江戸名所図会
高山神社
高輪の台地上にあった「石神社(別名『釈神社』)」が、高山稲荷神社に合祀されたもので、『江戸名所図会』によれば、石神横町(しゃくじんよこちょう)といわれていた。これを誤って里俗で「おしゃもじ横町」といったとされ、この名からつけられた名である可能性もある。
このおしゃもじさまは、もとは切支丹燈籠で、一説には高輪海岸で処刑された外国人宣教師を供養するために建てられたといわれ、また海中より出土したともいわれる。切支丹の隠れ信仰があった
ことを物語る資料である。

東京都港区教育委員会


としており、さらにこの神社の近く石榴坂を上がった場所にあるカトリック高輪教会前庭には1956(昭和31)年に刑場跡に建立された「江戸の殉教者の顕彰碑」があります。この碑は明和八(1771)年から刑場跡にあった海見山無量院智福寺の境内に設置されていましたが、1966(昭和41)年練馬区上石神井に移転するさいにカトリック高輪教会に移設されました。

寺の略歴によると切支丹磔刑が行われたのち札の辻のこの場所は長い間空き地になっていました。しかし一空上人は、悲しみを抱えた土地を寺院にすれば刑死した人々も浮かばれるだろうとの考えから桜田元町からこの地への智福寺の移転を決意したといわれています。

いづれにせよ、札の辻あたりから品川駅辺までのあたりの数度にわたる切支丹処刑の場所が江戸期の隠れ切支丹信者にとっての「聖地」となっていたことが想像されます。 
江戸期の高山神社と釈神社
現在の石榴坂

切支丹灯籠は別名織部灯籠ともいわれ切支丹との関連を否定する説もありますが、一般的には隠れ切支丹の信仰対象が彫られているといわれており、とくに港区域でもかなりの密度で切支丹遺物が集中した地域といえるのかもしれません。

さらに明治期以降はこのあたりにミッションスクールや教会などが相次いで建設され、それらキリスト教関連施設の密集度も高いと思われます。

これらのことから、札の辻あたりから品川駅辺までのあたりの数度にわたる切支丹処刑の場所が江戸期の隠れ切支丹信者にとっての「聖地」となっていたことが想像されます。

以前広尾稲荷神社さんからの依頼で江戸期の広尾稲荷神社の別当寺であった「法隆山 五光院 千蔵寺」を調べた際、寺の過去帳から宗門改めを作製するときの文例を綴ったと思われる文言が見つかったことがありました。これは当時の幕府が隠れ切支丹信者を恐れ、頻繁に宗門改めが行われていたと想像されるもので、私たちが思っているよりはるかに多くの隠れ切支丹が江戸市中にもいたのかもしれません。







カトリック高輪教会
「江戸の殉教者
の顕彰碑」
広尾稲荷神社の別当寺であった宮村町千蔵寺
過去帳に記載された「切支丹」










高輪周辺の切支丹痕跡
No.痕跡名場 所住 所根 拠備  考
1.元和切支丹処刑場札の辻港区三田3-5-27
三田ツインビル
西館裏庭
東京都教育委員会
解説板
元和9(1623)年十月十三日原主水ら50人の切支丹が火刑に処せられた場所。慶安四(1651)年鈴ヶ森に移転するまでの刑場跡であり、後に鎮魂のため移転してきた智福寺が昭和期まであった。昭和34年2月21日都旧跡に指定
2.五智如来帰命山如来寺港区高輪2-14辺

明治期に品川区西大井5丁目22に移転
品川の口碑と伝説
、他
創健者の木食上人「但唱」となる「又七」は隠れ切支丹であり磔刑から生還した後に仏門に入るが、その後も切支丹信者との説もあり作製した五体の如来像(五智如来)はキリストと四天使ともいわれる。また如来寺の敷地は元和切支丹火刑後の埋葬地ともいわれている。泉岳寺南隣にあったが1908(明治41)年品川区西大井に移転
3.おしゃもじさま高山神社港区高輪4-10-23港区教育委員会
解説板
元は石榴坂上の石神社(別名:釈神社)にあったもので、高山神社に合祀された。一説には高輪海岸で処刑された外国人宣教師を供養するために建てられたといわれ、また海中より出土したともいわれる。切支丹の隠れ信仰があったことを物語る資料である。
4.西洋型小鐘等覚寺港区高輪1-5-24港区の文化財第10集
高輪・白金その2
伝・江戸南蛮寺(蔵前)所蔵。 現住職によるとお隣にあった細川家に伝わるものと伝わる。
5.切支丹灯籠同 上同 上同 上住職によると明治期本堂建て替え時の整地で埋められていたもの発見。笠、火袋、中台なし 竿石高さ85cm
6.切支丹灯籠光福寺港区高輪3-14港区の文化財第10集
高輪・白金その2
笠、火袋、中台なし 竿石高さ86cm幅29cm。現住職によると近年他所から持ち込まれた物で元地は不明とのこと。
7.切支丹灯籠?鈴ヶ森刑場跡品川区南大井2-5-6慶安4(1651)年芝札の辻から移転してきたお仕置場。無縁地蔵脇にある切支丹灯籠と思われるものは、隣接する鈴ヶ森大経寺住職のよると立会川付近の住民から譲渡されたもので元設置場所や由緒は不明とこのと。住職によるとこの場所でも切支丹磔刑が行われ、近年キリスト教信者の参拝があったとのこと。








海見山無量院智福寺


江戸の殉教者顕彰碑
現在品川駅高輪口前から西へ登る柘榴坂(ざくろざか)坂上にあるカトリック高輪教会聖堂前庭に設置されている「江戸の殉教者顕彰碑」は、現在住友ツインビル西館となっている地にあった「智福寺」という寺院に建立されていました。

この智福寺は江戸時代の明和八(1771)年に建立されました。
寺の略歴によると切支丹磔刑が行われたのち札の辻のこの場所は
長い間空き地になっていました。

しかし開祖「一空上人」は、悲しみを抱えた土地を寺院にすれば刑死した人々も浮かばれるだろうとの考えから桜田元町からこの地へ
の智福寺の移転を決意したといわれています。
時代は下って1966(昭和41)年、寺が練馬区上石神井に移転すること
となったさいに殉教者顕彰碑はカトリック高輪教会に委譲されたとのことです。


「江戸の殉教者顕彰碑」碑文基督降世紀元 1623年12月4日 元和 9年徳川 3代将軍家光専制治下の江戸に於てた ん宗門イエズスか いエロニモ・デ・アンゼリス神父 シモン遠え ん修士 フランシスコ會士フ会である。毎年 11月、王であるキリストの祭日に、江戸の殉教者の記念ミサが行われている。教会地下納骨堂の前に江戸大殉教図の油絵が展示されており、地下の資料室では踏絵や禁教の高札などを見ることができる。ランシスコ・ガルヴェス神父 原主水等 5 0名の男子は人類の救いのために人とり給うた神なるキリストにた いする揺ぎなき信仰と熱愛とを証し火刑の苦しみに耐えの地に於て生命を捧げた こ こに在東京男子カトリック教徒は此の事績を想起し此の感銘を石に刻み彼等の雄々しい霊魂に對して絶えざる崇敬の念を表掲する

◎カトリック東京大司教区-江戸キリシタン巡礼ガイド
https://tokyo.catholic.jp/wp-content/themes/catholic-tokyo/doc/diocese/edo_j_guide.pdf





智福寺跡
























伊皿子等覚寺に伝わる西洋型小鐘









等覚寺に伝わる西洋型小鐘2









等覚寺に伝わる西洋型小鐘3





















明治以降の高輪周辺キリスト教関連施設
No.施設名住 所創 設備  考
1.普連土学園港区三田4-14-161887年
(明治20年)
米国フィラデルフィアのキリスト教団体フレンド派(クエーカー)の人々により創立。当時アメリカに留学中の新渡戸稲造と内村鑑三の助言により普連土学園が発足する。
2.フレンズセンター
(キリスト友会日本年会)
港区三田4-8-191923年
(大正12年)
普連土学園の関連施設。ヴォーリズ設計事務所の設計。国の登録有形文化財(建造物)
3.明治学院港区白金台1-2-371887年
(明治20年)
東京府から私立明治学院の設置が認可され、現在の白金の地にキャンパスが開かれた。礼拝堂はヴォーリズ設計建築
4.カトリック高輪教会 港区高輪4-7-11959年
(昭和34年)
太平洋戦争後付近で創立し1959年現在の地に新しく木造の聖堂が献堂された。教会前庭に札の辻智福寺より移設された「江戸の殉教者の顕彰碑」が設置されている。
5.日本基督教団 高輪教会港区高輪3-15-151882年
(明治15年)
礼拝堂は1933(昭和8)年に建設されたもので、旧帝国ホテルの設計者として有名なフランク・ロイド・ライトの門下であった岡見健彦の設計によるもので、日本で最初に建てられたライト式建築の会堂で、2004年に「東京たてもの百選」に選ばれる。









より大きな地図で 札の辻・高輪辺のキリシタン遺跡 を表示






◎高輪の大仏(おおぼとけ)
 https://deepazabu.blogspot.com/2013/04/blog-post_3.html


◎高輪の大仏(おおぼとけ) -その2 隠れ切支丹の寺
 https://deepazabu.blogspot.com/2013/04/blog-post_5.html