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昭和初期のがま池 |
前回、前々回に引き続き、麻布に関した書物の中の「がま池」を紹介します。
「麻布本村町」は仙台坂上にある麻布本村町のクリ-ニング屋の子息として大正14年に生まれた荒潤三氏が、昭和30年にその地を去るまでの、昭和初期から中期までの麻布を回想する自伝です。登場する項目は、
1.麻布本村町 | 2.庶民の町 | 3.お寺のある風景 | 4.水道の水で産湯 |
5.本村尋常小学校 | 6.麻布仙台坂 | 7.仙台山 | 8.有栖川記念公園 |
9.がま池 | 10.南部さん | 11.徳川さんのクリスマス | 12.麻布山善福寺 |
13.歳末とお正月 | 14.氷川様とお祭り | 15.提灯屋のおじさん | 16.電気屋のおじさん |
17.袋小路 | 18.物売り | 19.お湯屋 | 20.雑式通り |
21.麻布十番通り | 22.映画館 | 23.麻布十番倶楽部 | 24.大相撲の巡業 |
25.六大学野球 | 26.ツェッペリン伯号 | 27.麻布三連隊と兵隊さん | 28.ちんちん電車 |
29.ぽんぽん蒸気 | 30.両国の川開き | 31.銀座 | 32.農村動員 |
33.建物の疎開 | 34.東京大空襲 | 35.風船爆弾 | 36.買出し |
37.八月十五日 |
と非常に多彩で昭和時代の麻布南部をよく表しています。この中でがま池について、
氏が5~6歳の頃、がま池を擁するお屋敷の前を母と共に歩いていると、自動車に轢かれてペチャンコになったカエルがあちこちで見られたといます。そして母からがま池の伝説を聞かされます。この当時のがま池を荒潤三氏は、
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荒潤三著 麻布本村町 |
「昔より縮小整理されひょうたん型の池のまん中に小さな島があり、橋がかけられて、周囲の道路と連絡していた。-中略-この池の工事のとき、おおきながま蛙が出てきたという話を聞いた記憶がある。」
と書いています。そして当時池は一般開放されていて、子供たちの絶好の遊び場所であり、春にはたくさんのオタマジャクシがいたといいます。しかし、池の周囲が分譲地となると同時に縮小された池のそばでは、蛙が轢かれているのを目にする事もなくなったと記しており、その分譲地は当時あまり売れずに空き地が多く、ツクシやノビルを採ったとあります。その後分譲地付近で松竹映画のロケ-ションなども行われ、洋服姿の片岡知恵蔵や上原謙などもみられたと記しています。 最後に荒潤三氏は、
がま池に近い私の家は、関東大震災、B-29の大空襲にも焼かれることがなかった。
昔いたといわれる、大がまの霊がが守ってくれたのかと思うと、感謝の気持ちで一杯だ。
と、結んでいます。
最後に荒潤三氏が「麻布本村町」の前書きで記しているリルケの詩「若き詩人への手紙」をご紹介します。
それでもあなたは、まだあなたの幼年時代というものがあるではありませんか、
あの貴重な、王国にも似た富、あの回想の宝庫が。そこへあなたの注意をお向けなさい........。
★2013年追記
10年ほど前、この項を書くにあたって荒潤三氏に電話で使用許諾を頂いたのですが、その時すでに80際近いご高齢にもかかわらず、いろいろとお話をして下さいました。麻布を離れて大田区にお住まいとのことですが、どうぞお元気でお過ごし下さい。
◎麻布本村町とは?
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久松安著 麻布本村町会史 |
この項のテーマである「がま池」は麻布宮村町南部にあるように誤解しがちですが、実は麻布本村町域に属しています。そして現在もがま池は麻布本村町会の管轄地域であり、麻布本村町会は東は麻布氷川神社から仙台坂下北側まで、北はがま池まで、西は麻布高校敷地辺まで南は古川北岸までと広大で、現在港区で一番広い担当区域を有しているそうです。
麻布本村町は麻布南部の中心的地域で、町域内には貝塚などもあり、おそらくこのあたりでは最初に集落が形成された地域で、その名残から「本村」としたと考えられています。
暗闇坂を上り麻布山の尾根道(麻布の台、亀子台とも)を仙台坂上から相模殿橋(四之橋)方面へと抜ける古道(奥州道ともいわれています)が町の中心部を走り、交通の要所でもあったようです。
そして、江戸中期の正徳三(1713)年、代官支配地の「村」から町奉行支配地で都市部となる「町」となった際にも町名の「村」を棄てて「本町」あるいは「元町」とすべきところを「本村町」とあえて村を使用しとたままにした町名には当時の本村町名主などの意気込みが感じられます。なを、同様に「村」を残したまま町名とした「宮村町」があります。宮村は江戸初期まで、本村は現在も麻布氷川神社の鎮座地であるので、何か関連があるのかも知れません。
またそれまで「阿佐布」や「麻生」「浅府」、「安座部」などさまざまに表されてきたアザブの漢字を「麻」に「布」で麻布と統一した経緯について当時幕府公認の地域ガイドブックである「江戸町方書上」において麻布本村町の名主「栄太郎」は、
正徳三(1713)年町御奉行所御支配に相成り候頃より麻布と文字書き改め候。この訳は往古この辺り、一円百姓地にて御代官伊奈半左衛門様御支配所に御座候。その頃、 百姓耕作の助けに麻を作り女子ども手業に布を織り、また、麻苧紙と申すを漉き渡世に致し候由、これにより阿佐布を麻布と文字改め候由申し伝え候
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麻布申酉会著 麻布本村町 |
と「麻布」と表記するようになったのは麻布が江戸市中に組み込まれた頃と明記しており、アザブを「麻布」と表記する語源の出典根拠として、さまざまな文章で使用されています。
今回ご紹介した荒潤三氏が表した「麻布本村町」の他によく似たタイトルの書籍が存在します。
一つは現本村町会会長の父上が自費出版された「麻布本村町会史」で、町会の由緒や昭和2年に行われた麻布氷川神社の社殿新築工事の様子と共に「蝦蟇ヶ池」としてがま池伝説が記されています。
そして、二つ目は麻布高校昭和13年度の卒業生で麻布申酉会の同窓誌「麻布本村町」で、私はふらりと立ち寄った古書店でこの書籍を手に入れました。内容は戦前の学校内を回想した文章などが掲載されていて非常に興味深いのですが、残念ながら「がま池」に触れている文章を見つけることはできませんでした。
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