◆私塾、寺子屋
名 称 学科 所在地 開業 廃業 教員 生徒 隆盛期、備考 調査年代 身分 校主、塾主 私塾 端 塾 漢学 谷町 嘉永5年 明治11年 男6名 男300名 安政 明治4年 武士 林 鶴梁 明霞書院 漢学 材木町 天保4年 明治10年 男1名 男32名 慶応 明治4年 武士 宮崎 誠 乾々塾 漢学 飯倉片町 嘉永3年 継続 男1名 男60名、女4名 元治 明治4年 武士 岡 壽考 時中堂 漢筆 本村町 明治4年 継続 男1名 男5名、女10名 明治4年 明治4年 平民 稲村虎三郎 芙藻館 漢学 芝森元町 - 明治初年 男1名 男35名、女7名 天保13年 明治元年 武士 服部 元彰 繕生塾 西洋医学 芝森元町2丁目 嘉永5年 明治5年 男1名 男70名 明治4年 明治5年 武士 山元 照明 雪丘樓 漢学 永坂町 安政4年 慶応3年 男1名 男20名 文久元年 慶応3年 平民 菊地誠一郎 尚白舎 漢学 永坂町 明治3年 継続 男1名 男20名 - 明治4年 平民 菊地貴一郎 - 漢学 青山裏百人町 弘化3年 文久2年 男1名 男20名 - 文久2年 武士 山井璞輔 - - 六本木 - - 男1名 男30名、女5名 - 慶応元年 武士 山村 葆 寺子屋 三峡堂 読算 永坂町 弘化三年 継続 男1名 男150名、女135名 - 明治4年 平民 百瀬為芳 龍昇堂 読算 芝森元町 文化8年 継続 男?名、女1名 男19名、女22名 - 明治4年 平民 寺田コト 龍嘯堂 読算 新網町二丁目 弘化元年 継続 男1名、女1名 男20名、女25名 - 明治4年 平民 辻 兵作 三栄堂 読算 飯倉六丁目 文政12年 継続 男1名、女1名 男32名、女20名 - 明治4年 平民 小暮寅三郎 望雪洞 - 桜田町 明治4年 明治10年 男1名、女1名 男75名、女25名 - 明治4年 神官 佐々木義隆 柳花深慮 - 今井町 明治4年 明治七年 男1名 男35名、女15名 - 明治4年 僧 早川義道 - 読算 材木町 天保3年 継続 男1名、女1名 男38名、女25名 - 明治4年 平民 早川信成 龍松堂 読書 新龍土町 慶応元年 明治7年 男1名 男30名、女25名 - 明治4年 平民 小菅重次郎 幼童学所 読算 飯倉三丁目 明治3年 明治16年 男4名、女3名 男127名、女152名 - 明治4年 平民 吉田東功 三光堂 算術 網代町 明治2年 明治6年 男1名 男31名、女20名 - 明治4年 武士 神田鐘太郎 - 読算 宮下町 弘化2年 継続 男?名、女1名 男80名、女120名 - 慶応3年 武士 磯 セイ 龍暁堂 算術 本村町 慶応2年 明治13年 男1名 男30名、女23名 - 明治4年 僧 中川頂玄 大隈堂 - 宮村町 文久2年 継続 男1名 男5名、女5名 - 明治4年 武士 山本西淳
明治8年6月には、麻布区で最初の小学校である第二中学区第一五番小学麻布学校が麻布市兵衛町に創立されます。続いて明治9年12月には 麻布宮村町に第二中学区第27番南山学校が、明治11年10月には芝森元町に第二中学区第**番飯倉学校が設立されました。またその他、学校の統廃合も行われました。明治13年12月にそれまでは、学校の維持、資金調達を各校が独自で行っていたものを麻布区議会が号外議案として麻布区公立学校維持仮条例を議決し、以降各小学校は区の管轄、所有になりました。以下は当時の小学校。
◆小学校
明治14年6月文部省は従来の「学区」を廃し、あらたに郡区による学区と改めたので麻布区は1学区となります。明治15年文部省は小学校教則綱領を定め、小学校を初等(3年)、中等(3年)、高等(2年)としました。これを受けて麻布区は臨時区議会で麻布小学校を高等小学校として区内共通とし、併せて初等学科を置きました。中等は、南山と飯倉小学校として、やはり初等学科を付属しました。しかしこれにより初等から高等までの間、最低2校、多い児童は3校に通学せねばならなくなり、煩雑さから不就学児童を生み出す要因ともなったようです。
名 称 所在地 創 立 備 考 麻布小学校 麻布市兵衛町 明治8年6月1日 麻布区初の小学校。昭和8年11月麻中小学校と合併し飯倉町に移転。 南山小学校 麻布宮村町 明治9年12月17日 暗闇坂東側で創立して、現在の六本木高校敷地に移転、さらに現在地に移転する。それぞれの校舎は暗闇坂校舎、藤棚校舎(校庭に藤棚があったため)と呼ばれた。 飯倉小学校 麻布飯倉町 明治11年12月28日 飯倉小学校廃校-2004(平成16)年 三河台小学校 麻布三河台町 明治35年4月1日 大正5年に生徒数が激増し1、2年は2部授業に。昭和10年新校舎に移転。 本村小学校 麻布本村町 明治35年4月15日 創立当時は民家もまばらで児童数も128名であったが、明治38年には600名あまりに達した。このため同年3月に校舎を増築し、翌年高等小学校も併設。大正14年に補助学級、昭和5年に養護学級を設置。 笄小学校 麻布笄町 明治40年1月12日 創立当時、周りは田んぼであったと言われる。大正2年より2年生が2部授業に。さらに大正5年には1、2、3学年が2部授業に。大正11年10月に特別児童促進学級(のち補助学級)を設置。 東町小学校 麻布東町 大正2年11月14日 設立当時の児童数は607名、学級数11。大正12年9月の関東大震災で被害を受け、10月9日まで休校。 麻布高等小学校 麻布宮村町 明治41年4月1日 明治40年の小学校令により新設された。設立当時校舎は無く、三河台小学校に間借りし、明治42年麻中小学校の一部を借りた。その後三河台小学校跡地をへて南山小学校跡に移転。昭和6年に鉄筋コンクリ-ト3階建て新校舎が完成し各小学校に分散していた児童を収容。 麻布新堀小学校 麻布本村町 明治42年6月21日 東京市が細民子弟教育のため市立として創立した小学校。当初、台南小学校と称したが後に絶江小学校と改めた。これは、代用小学校の慈育小学校幹事の絶江宗育氏から起こした名と思われ、この代用小学校の事業を継承したことが伺える。大正15年東京市から麻布区に移管され一般小学校となり麻布新堀尋常小学校と改称した。しかし 本村、東町小学校と接近していたため児童数が減少し昭和7年3月31日に廃校となった。私見ではあるが、元細民子弟の学校であったので、親もあまりこの学校に通わせたがらなかったと思われ、それも廃校になる要因の一つであったと思われる。
明治19年4月に小学校令が発布され、中等が廃止されて尋常、高等の2科になりました。そしてこの法令により、区町村はすべての学齢児童を 就学させるに足りる尋常小学校の設置を義務づけられたのですが、麻布区においても尋常小学校の数が絶対的に不足していたので、条例で許された私立の小学校を代用することに決定します。以下はその代用私立小学校(明治27年調査)。
◆代用私立小学校
名 称 所在地 教室坪数 校庭坪数 学科、学級数 児童定員(現児童数) 教員 創立 設立者 寺子屋当時の名称 宮下小学校 麻布宮下町 50 50 尋常(3)、高等(1) 198(191)、44(34) 3 明治7年4月 飯塚 せい - 小暮小学校 麻布飯倉町 46.5 63 尋常(2)、高等(1) 168(110)、32(30) 3 明治6年1月 小暮寅三郎 三栄堂 庭訓小学校 芝森元町 22 9 尋常(1) 110(41 1 明治6年3月 寺田 琴 龍昇堂 辻 小学校 芝北新門前町 28.2 15 尋常(1) 123(44) 1 明治6年1月 辻 兵作 龍嘯堂 山本小学校 麻布宮村町 24 50 尋常(2) 102(88) 2 明治6年4月 山本西淳 大隈堂 三台小学校 麻布三河台町 23 29 尋常(1) 115(87) 2 明治10年11月 内山真心 - 谷 小学校 麻布箪笥町 39.5 ? 尋常(2) 112(84) 2 明治18年9月 黒崎 信 - 培根小学校 麻布飯倉町 41 17.1 尋常(1) 192(74) 1 明治18年12月 吉田東功 幼童学所 慈育小学校 麻布本村町 54 12 尋常(4) 273(273) 4 明治20年9月 絶江宗育(幹事) -