① 麻布区我善坊町25番地
以前お伝えしたシーボルトには日本人妻「其扇 (たき)」との 間に、娘の「イネ」がいます。イネはのちに「オランダおイネ」とも呼ばれ女医(正確には医師免許は取得せず、産婆であったそうです。)の草分けとなった人ですが、その晩年を麻布で暮らしたことはあまり知られていません。
イネは1827(文政10)年5月6日長崎出島で生まれました。しかし、2歳の時に父シーボルトは国外追放となり、イネの養育は シーボルトの信頼する弟子の二宮敬作に託されます。長じたイネは二宮敬作、石井宗謙らのもとで産科医としての 修行をはじめます。1852(嘉永5)年、25歳で石井宗謙とのあいだに長女「たか」が出生。その後もポンペ、ボードウィン 、マンスフェルトなどに医学を学び、1859(安政6)年32歳の時にシーボルトの再来日により母滝とともに父への再会を 果たします。その後、1870(明治 3)年には上京し築地で産科医を開業、福沢諭吉らと親交を持ちながら1873(明治 6)年- 宮内省御用掛を拝命し若宮の出生を助けています。しかしその先祖の墓所を守りたいとの念から長崎に帰省し、西南の役が起こる1877(明治10)年、二度目のシーボルト江戸参府に付き添い、娘たかの夫となっていた三瀬周三が急死。これ によりイネとたかは長崎で同居を始めますが、まもなく医学を学ぶためにたかは江戸へとむかいます。
その後、1879(明治 12)年長崎に戻ったたかは懐妊していました。そしてその子が生まれると亡くなった前夫とおなじ名「周三」をつけました。 周三は生まれるとまもなく池原家に養子に出され、たかは請われて山脇泰介(山脇学園創始家)に嫁ぎます。しかし翌年、イネは池原家 に懇願して周三を自分の養子として貰い受け養育を始めます。そして山脇家に嫁いだたかは二子をもうけるが、幸せは 長く続かず夫の山脇泰介が急死し、たかは再び長崎のイネのもとに戻り、同居を始めます。
② 麻布区麻布仲ノ町6番地
その後、1889(明治22)年秋、シーボルト離日時に英国公使館通訳官として日本に残った異母弟アレクサンダーからの 招聘でイネは再び東京に出ることとなります。そして麻布区仲ノ町11番地アレクサンダーの弟ハインリッヒの持ち家の空き洋館に住居を定め、 娘たか・孫(戸籍上は養子)周三、多き、たねと同居し、楠本医院を開業する(イネは医師免許を取得しなかったため産婆としての開業)。 この時に麻布区役所に提出した「借家寄留届」にはイネ自身の身分関係を「亡佐平孫楠本イ子」として親の名を記していないそうです。ちなみに 1898(明治31)年戸籍法が制定されるとイネは長崎市に親の名を「新兵衛」として届けていますが、これは死亡月日などから 母たきのことだろうと思われます。これらは当時有名人とはいいながらも、異国人を父に持つという現実が世間の目からは相当 厳しくみられていたであろうことを忍ばせる出来事だと考えられています。
③ 麻布区麻布仲ノ町11番地
この我善坊町の屋敷で一年半あまりを過ごしたイネと家族は、明治24年5月10日に麻布区麻布仲ノ町6番地、明治25年5月20日 麻布区麻布仲ノ町11番地と麻布区内に住居を変えることとなります。そして明治28年5月18日(イネ68歳)麻布区飯倉片町32番地にて逝去します。前日の 夕食にイネは好物の鰻を食べ、その後孫たちと西瓜を食べたそうです。その後、夜半に腹痛を訴えて医者が呼ばれましたが、医者の診断は「食傷」とのことでした。しかし明け方には昏睡状態となりその日の夜、家族に見守られながら息を引取ったといわれています。
イネが最晩年を過ごした麻布ですが、
① 明治22年7月11日(イネ62歳)麻布区我善坊町25番地② 明治24年5月10日(イネ64歳)麻布区麻布仲ノ町6番地に転居③ 明治25年5月20日(イネ65歳)麻布区麻布仲ノ町11番地に転居④ 明治28年5月18日(イネ68歳)麻布区飯倉片町32番地に転居⑤ 明治36年8月26日(イネ76歳)麻布区飯倉片町28番にて逝去
と、現在の飯倉片町交差点を中心としてこの場所への固執がみられるような気がします。これについてシーボルト記念館に質問 してみましたが、その理由を明らかにする
④ 麻布区飯倉片町32番地
資料は見つかりませんでした。しかし、個人的な推測ですが、この住居選定と養子の周三が 大きく関わっているような気がしてなりません。
これは、イネ一家の上京がイネが養子の周三に医学を志してほしいとの思い から発したもので、吉村昭著「ふぉん・しいほるとの娘」によるとイネは以前から親交のあった石神良策の娘婿である 海軍軍医石神亨に相談し、義父の愛弟子である高木兼寛の創立した慈恵医大への入学を勧められていたようです。そして周三は、その意に答 えてイネの逝去前後に慈恵医大に入学しています。
この入学時期について吉村昭は「ふぉん・しいほるとの娘」でイネの生前で であるとしてこの入学を機に周三に鳴滝の土地の譲渡を行っているとしていますが、慈恵医大データベースにある論文 「髙木兼寛の医学-シーボルトの曾孫・楠本周三-松田誠著」には、イネに慈恵医大を紹介したのは福沢諭吉であり、 周三の入学時期を1904(明治37)年としています。しかし1879(明治12)年生まれの周三は慈恵医大の入学時には25歳であった ことになります。これは当時の慈恵医大の受験は難関であったため浪人期間があるのかもしれないと論文は推測しているのですが、 独協中学への入学も周三の年齢を18歳としていて、小学校の後に2年間の高等小学校に通ったと仮定してもさらに 4年ほどのブランクが生じることとなります。これは当時の一般的な中学の入学年齢の12歳前後からすると大変に遅いものです。
⑤ 逝去地
麻布区飯倉片町28番
そして慈恵医大の卒業名簿から周三の卒業を1908(明治41)年29歳としている。これらのことから論文によるとイネの逝去時には まだ周三は慈恵医大には入学していなかった事となりますが、イネが周三に慈恵医大入学を希望していたのは確かなことである と思われ、イネは芝愛宕の慈恵医大の比較的近所であった土地を意識的に選んで転居を繰り返していたのではないかと思われてなりません。
余談となりますが、楠本周三の実母「たか」は江戸末期には宇和島藩主伊達宗城の侍女として使えますが、その当時漫画家の松本零士の六代 前の先祖が三瀬周三の同僚で「たか」と面識があったそうです。松本家の先祖は「たか」の美しさを代々語り継ぎ松本零士にも伝えられたそうです。 この記憶によって松本零士は作品で描く宇宙戦
艦ヤマトのスターシアや銀河鉄道999のメーテルなどの女性像を、「たか」を イメージして作った。と自身が講演会などで語っています。
イネの姓について「ふぉん・しいほるとの娘」で吉村昭は宇和島藩主伊達宗城がイネにそれまでの失本 から「楠本 」姓を名付け、 名をいね→伊篤 、としたとしていますが 「鳴滝紀要-楠本・米山家資料にみる楠本いねの足跡-シーボルト記念館発行」によるとシーボルト記念館の収蔵資料に最初に 「楠本」姓がみられるのは明治2年だといわれ、それ以降も書簡などに失本を名乗っているものがあるそうです。 また名もいね、い祢、以祢、イ子 を名乗っていますが「稲」は 相手が宛先に「稲」を使用した書簡が残されています。しかし、これは誤字だとされているようです。最後に父シーボルトは再来日時の書簡では「Oine」と 書いています。
三瀬周三と高
- 1827(文政10)年-5月6日 長崎出島で誕生
- 1830(天保元)年-12月7日シーボルト国外追放
- 1845(弘化 2)年-1851(嘉永4)年まで備前の石井宗謙のもとで産科修業(18歳)
- 1851(嘉永 4)年-1854(安政 1)年まで長崎の阿部魯庵もとで産科修業(24歳)
- 1852(嘉永 5)年-2月7日 長女たか誕生(25歳)
- 1854(安政 1)年-1861(万延2)年まで伊予宇和島の二宮敬作のもとで産科修業(27歳)
- 1859(安政 6)年-7月6日父シーボルト再来日(32歳)
- 1859(安政 6)年-7月8日母たきとシーボルトに対面(32歳)
- 1859(安政 6)年-1862(文久2)年までポンペに産科を習う(32歳)
- 1862(文久 2)年-4月19日アレクサンダー英国公使館通訳官となる
- 1862(文久 2)年-4月30日父シーボルト日本を離れる(35歳)
- 1862(文久 2)年-1866(慶応2)年までボードインに産科を習う(35歳)
- 1869(明治 2)年-母たきの死亡により家督を相続(42歳)
- 1870(明治 3)年-アレクサンダー日本政府民部省入省(43歳)
- 1870(明治 3)年-上京し築地で産科医を開業(43歳)
- 1873(明治 6)年-宮内省御用掛を拝命(46歳)
- 1879(明治12)年-孫の「周三」が生まれるが、すぐに養子に出される。(52歳)
- 1880(明治13)年-孫の周三を養家から引取り養子とする(53歳)
- 1883(明治16)年-孫の「多き」が生まれる(56歳)
- 1884(明治17)年-産婆免許願いを長崎県令に申請(57歳)
- 1887(明治20)年-孫の「多祢」が生まれる(60歳)
- 1889(明治22)年-7月11日長崎から麻布我善坊町25番地に転居(62歳)
- 1891(明治24)年-5月10日麻布仲ノ町6番地に転居(64歳)
- 1892(明治25)年-5月20日麻布仲ノ町11番地に転居(65歳)
- 1895(明治28)年-5月18日飯倉片町32番地に転居(68歳)
- 1900(明治33)年-鳴滝の土地を周三に譲渡(73歳)
- 1901(明治34)年-隠居届を提出、周三戸主となる(74歳)
- 1903(明治36)年-8月26日麻布区飯倉片町28番にて逝去(76歳)
このように晩年の14年間を麻布で過ごした「いね」ですが、何故麻布に住まいを決めたのかを解く鍵は孫の周三にあると思われます。 長崎を終の棲家としていたいねが人生最後の力を振り絞って上京したのは、私見ですが孫周三を医学の道に就かせたいという、希望というよりも 執念に近いものがあったように思えてなりません。
前回の上京時に知己を得た慶應大学の福沢諭吉を通して慈恵医大を知る立場にあり、慶應大学にはまだ医学部がなかった事からも、いねは周三の慈恵医大入学を 熱望したのではないでしょうか?そしてその願いが叶った折にも全寮制の慈恵医大からも近い我善坊、狸穴辺を選んだのかもしれません。いづれにしても麻布内を4回も転居を重ねながらも、位置的には飯倉片町辺からほとんど動かなかった 転居には何がしかの理由があったものと想像されます。
参考文献
・鳴滝紀要-シーボルト記念館
・ふぉん・しいほるとの娘-吉村昭
・シーボルト日記・再来日時の幕末見聞録-石山禎一・牧幸一訳 ・シーボルト、波乱の生涯
・東京市及接続郡部地籍地図-1912(大正1)年発行
・東京市及接続郡部地籍台帳-1912(明治45)年発行
・シーボルト父子伝-ハンス・ケルナー
・ジーボルト最後の日本旅行-アレクサンダー・シーボルト
・近現代沿革図集--港区郷土資料館
レファレンス協力
・シーボルト記念館
・大洲市立博物館
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