「赤羽接遇所」跡の飯倉公園 |
1859(安政6)年7月6日、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと長男のアレクサンダーはイギリス客船イングランド号で長崎に入港した。来日は2度目となるシーボルトは、前回来日時に妻となった滝、娘のイネと1830(天保元)年12月7日以来29年ぶりの再会を果たした。そして、前回27歳の時に来日し34歳でいわゆる「シーボルト事件」で国外退去を申し渡されるまで日本に滞在したシーボルトも63歳となっていた。
前回の来日はオランダ軍医としての来日で秘密裏に諜報活動もその任務として与えられていた(一介の軍医としては不相応の大金を所持し、それにより日本にちなんだ物品・情報を大量に収集していた)が、今回は政府の公式な肩書きはなく、民間の和蘭商事会社(国営の出島商館を解体して民営化されたものだが)顧問としての来日で、日蘭通商条約改正案の持参とコレクションの収集という目的もあった。そして目的を達し和蘭商事会社との契約を終了したシーボルトは長崎滞在中に幕府の外交顧問を依頼され、江戸出府を促された。これにより1861年3月3日シーボルト父子・三瀬周三一行は長崎港をあとに横浜へと向かった。
父子は1861(文久元)年3月10日横浜へ入港し外国人居留地で幕府からの指示を待つ。その間に多くの外国人商人や外交官と親交を深め、特にフランス公使ベルクールとは頻繁に付き合うようになった。
幕府から江戸行きの許可が下りたのは5月になってからで、5月10日の朝、船で神奈川まで行きその先は駕篭に乗って江戸入りを果す。そして一行は夕方、幕府から宿舎に定められた芝の赤羽接遇所に到着した。 (駕籠はフランス公使ベルクールの好意により自身のものを貸し出されたといわれる。) その時の様子を、
~海岸に通じる街道を通り、辻々には木戸や矢来があって閉じられるようになっていて、傍らに火の番小屋のある所を通り過ぎると、赤く塗った門のある有馬候の屋敷の向い側にある、黒い塀で囲まれた玄関前の庭を通って、私たちの宿舎、赤羽接遇所に着いた。~
とアレクサンダーは、書き残している。
赤羽接遇所に着くと役人、日本側通訳、目付などに出迎えられ、その後外国奉行新見伊勢守の来訪により将軍からの贈り物を拝領した。赤羽接遇所には条約締結のため直前までプロシア使節団が滞在しており、建物の柱や壁にはプロシア兵たちの落書きやジョークなどが掘り込まれていたという。
江戸滞在時におけるシーボルトは「幕府の外交顧問」、「西洋文明の伝達者」として講義・面会・助言など多忙を極めた。
また、各国公使、幕府外国担当の要人などに意見具申を重ねたが、滞在直後の5月28日深夜、東禅寺襲撃事件がおこるとその事後処理に忙殺される。そして、シーボルトはオランダの公式な外交員ではなく幕府に雇われた外交顧問という立場から各国代表の反感を買い、横浜で静養し再び江戸に戻った8月15日以降、特にオランダ公使デ・ウィットとの関係は冷ややかであったという。そして9月にはデ・ウィットから頻発する外国人襲撃から身を守るためと称して江戸退去を迫られる。しかしシーボルトはオランダの警護は求めずとして退去要請を無視すると、デ・ウィットは各国代表らと幕府にシーボルトの解雇を求め、無理やりに認めさせてしまう。失意のシーボルトは10月15日ついに江戸を離れ、横浜へと向かった。ここで長男のフィリップは英国公使館の通訳官として正式に任官し江戸へと戻ることになり(父シーボルトは息子がロシア海軍の士官になる道を設定していたが、フィリップの意向を尊重してのイギリス公使館勤務となったという)、これが父子の永遠の別れとなった。その後、横浜から船で長崎に戻ったシーボルトは妻のたき、娘のいね、門弟などに送られて1862年4月30日午前10時、シーボルトを乗せた船は出港し日本を後にした。
以上がシーボルト2回目来日時江戸滞在のアウトラインだが、この期間のシーボルトと麻布の関連キーワードは「善福寺」である。
麻布山善福寺さかさ公孫樹
シーボルトは江戸に到着した直後の5/20・5/21・5/22をはじめとして江戸滞在中、日記に記載されたものだけでも合計9回もハリスを善福寺に訪問している。当時江戸には、アメリカ公使館が麻布山善福寺、イギリス公使館が高輪東禅寺、フランス公使館が三田済海寺、オランダ公館が伊皿子長応寺などにあるが、その中でアメリカ公使館は最初に江戸進出したことから持つ豊富な情報、ヒュースケン事件(シーボルトはヒュースケンが殺害された事を当時滞在していた長崎で事件の詳細を聞き知っていた。)の真相と進捗などを聞き、イギリス公使館は高輪東禅襲撃事件関連での訪問が続いたと考えられる。
そして特筆すべきは5月22日善福寺にハリスを訪問したさいに「逆さいちょう」の観察とヒュースケン・伝吉の墓参を行ったことである。
5月22日、善福寺のアメリカ公使館にハリスを訪れ「逆さ銀杏」を見たシーボルトは、
正午、ハリス邸へ。ヒュースケン、伝吉の墓参り。ハリス邸の寺院の境内に周囲30フィートの太さのイチョウがある。この巨大な樹は、枝分かれの下、高さ12から18フィートあたりの幹から、太さ3から5インチの太い根{気根}が出ている。東ロシアのヴァリンピの樹に似た形である。
私はイチョウの一本を江戸の近くの寺で観察した。その寺は、アメリカ公使館に譲ったものであるが、木は周囲7m、高さがおよそ30mもある
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と、帰国後「1886年ライデン気候馴化園の日本植物。説明付き目録の要約と価格表」に記しているが、シーボルトが「逆さ銀杏」を観察し記録した事実はほとんど知られていないという。(シーボルト波瀾の生涯より)
その後、同じ日に麻布光林寺で中の橋近辺で襲撃され命を落とした「ヒュースケン」の墓とその傍らにある イギリス公使館通訳伝吉の墓を参拝した。そして両者の墓碑銘を比較して「静と動の不思議な対比である」と覚書に記している。
(ヒュースケン墓碑銘)
日本駐在アメリカ公使館付通訳ヘンリック・ヒュースケンの御霊に献ぐ。
1832年1月20日アムステルダムに生まれ、1861年1月16日江戸にて死去
(伝吉墓碑銘)
伝吉Dan kutchiイギリス使節団付日本人通訳は、1860年1月29日、
日本の暗殺者たちによって殺害された
月 | 日 | 出 来 事 |
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5月 | 10日 | 横浜から神奈川を経由して陸路赤羽接遇所に夕方到着 |
11日 | 赤羽接遇所員の勤務名簿を受け取る | |
20日 | 善福寺にハリスを訪問 | |
21日 | 善福寺にハリスを訪問 | |
22日 | 正午再び善福寺にハリスを訪問し「逆さ銀杏」を見る。その後光林寺にヒュースケン、伝吉の墓参。 | |
29日 | 早朝3時半高輪東禅寺襲撃の知らせがあり、5時過ぎに25人の護衛に守られて東禅寺を訪問し負傷者を治療。 帰路善福寺にハリスを訪問。接遇所も厳重警備となる | |
30日 | 高輪東禅寺の英国公使館にイギリス公使オールコックを訪問 | |
6月 | 3日 | 安藤対馬守屋敷にて会談。東禅寺襲撃事件の話など |
5日 | 外国奉行鳥居越前守、イギリス公使オールコックが赤羽接遇所を来訪 | |
6日 | 外国奉行新見伊勢守来訪、水野筑前守らが来訪 | |
15日 | 子息アレクサンダーが父シーボルトの書簡を持ち善福寺を訪問 | |
17日 | 善福寺にハリスを訪問、イギリス公使との調停を斡旋 | |
20日 | 外国奉行津田近江守と会談。赤羽接遇所に新たに警護所が設けられ警備が強化される | |
7月 | 1日 | 冶金学の講義 |
3日 | 外国奉行野々山丹後守来訪 | |
10日 | 遣欧使節団の計画案を作成 | |
11日 | 子息アレクサンダー誕生日。父シーボルトはマホガニーの箱に入った2連銃を贈る | |
12日 | 将軍侍医団が来訪。その中の一人、伊藤玄朴は鳴滝塾出身でシーボルトの門弟 | |
13日 | 前日善福寺で暴動(発砲事件)が起こり、赤羽接遇所も厳重警備となる | |
15日 | 善福寺にハリスを訪問 | |
16日 | 将軍侍医戸塚静海来訪。静海は鳴滝塾出身でシーボルトの門弟。仏公使ベルクール来訪 | |
22日 | 船で江戸から横浜へ出立。途中鈴ケ森で20歳の娘が放火犯として火あぶりの刑に処せられるのを 偶然見る。※この処刑は八百屋お七ではない(お七の処刑は天和3年(1683)3月29日 | |
※ | ~7/22-8/14、この間、シーボルト父子は横浜に滞在~ | |
8月 | 14日 | 朝7時、江戸へと出発 |
15日 | 江戸に帰着したことを外国奉行に知らせる。道中で家々の玄関に「月見の祭り(仲秋の名月)」の飾り付けがあるのを見る。 | |
16日 | ハリスを訪問 | |
20日 | 浅草寺へ 芝田町波止場より船で浅草へ浅草寺参拝。浅草では外国掛役人が密かにハリスの警護をした | |
21日 | 採鉱学の講義 | |
23日 | 津和野藩主亀井隠岐守の侍医、池田多仲が来訪 | |
9月 | 5日 | ハリスとクラークが来訪 |
6日 | ハリスとクラークが来訪 | |
7日 | 善福寺にハリスを訪問 | |
10日 | 外国奉行水野筑前守来訪。幕府が江戸退去を懇願していることを告げられる | |
15日 | 冶金学講義 | |
25日 | 外国奉行で遣欧使節大使の新見伊勢守、新任の外国奉行、竹本隼人正、根岸肥前守来訪 | |
10月 | 11日 | 子息アレクサンダーが横浜に出発 |
14日 | 善福寺にハリスを訪問 | |
15日 | 江戸を出発し横浜に向かう。 |
名 称 | 公 使 | 所在地・地図 | 創設時期 | 備 考 |
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赤羽接遇所 | 講武所付属調練所跡 | 1859(安政六)年8月~ | ロシア領事ゴスケビッチ、プロセイン使節オイレンブルグ、シーボルト父子などが滞在 | |
アメリカ公使館 | ハリス | 麻布山善福寺 | 1859(安政六)年6月8日~ | 子院善光寺はヒュースケン宿舎 |
イギリス公使館 | オールコック | 高輪東禅寺 | 1859(安政六)年6月4日~ | 公使館通訳伝吉刺殺事件・2回の高輪東禅寺襲撃事件 |
フランス公使館 | ベルクール | 三田済海寺 | 1859(安政六)年8月29日~ | 江戸で3番目の外国公使館。公使館の旗番ナタールが同地にて襲撃され負傷した三田聖坂上にある |
オランダ公使館 | デ・ウィット | 伊皿子長応寺 | 以前よりカピタン出府時に使用 | この時期オランダは長崎出島内に本拠があり公館ではなかったがカピタン出府時などに使用された。この寺は後に写真家ベアトのアトリエが併設される。公館は安政6年に西応寺に設置されたが、慶応3年薩摩藩邸焼き討ちの際西応寺が類焼しここ伊皿子の長応寺が公使館となった。一時期、スイスの公使館員が寄宿していた時期もある。寺は明治期に北海道に移転し現在はマンションとなっている。 |
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赤羽接遇所跡
赤羽接遇所は、安政六年(1859)に、これまで講武所付属調練所であった地に設けられた外国人のための宿舎兼応接所である。同年八月に作事奉行関出雲守行篤らによって建設された内部は間口十間、奥行二十間のものと、間口奥行十間のものとの二棟の木造家屋から成っていた。
幕末にわが国を訪れたプロシャの使節オイレンブルグは、上陸後直ちにここを宿舎として日普修好通商条約を結び、またシーボルト父子やロシアの領事ゴシケビチなどもここに滞在し、幕末における外国人応接の舞台となった。
昭和四十八年三月
東京都港区教育委員会
参考文献
・シーボルト日記・再来日時の幕末見聞録-石山禎一・牧幸一訳
・鳴滝紀要-シーボルト記念館
・黄昏のトクガワ・ジャパン-ヨーゼフ・クライナー
・シーボルト波瀾の生涯-ヴェルナー・シーボルト
・歳月-シーボルトの生涯-今村明生
・文政11年のスパイ合戦-秦新二
・ふぉん・しいほるとの娘-吉村昭
・シーボルト父子伝-ハンス・ケルナー
・ジーボルト最後の日本旅行-アレクサンダー・シーボルト
・幕末異人殺傷録-宮永孝
・陽だまりの樹-手塚治虫
・ヒュースケン日本日記-青木枝朗訳
・江戸の外国公使館-港区郷土資料館
・近現代沿革図集--港区郷土資料館
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