2013年9月6日金曜日

麻布本村町の山車人形と獅子頭(その2)

以前お伝えした麻布本村町の山車人形と獅子頭(その1)の続編として今回は「その2」をお伝えします。

麻布南部(現在の南麻布1~3丁目付近)の麻布本村町は麻布の中でも早くから人が住み着いたところで、その名が示すとおり 麻布の中心的な集落であったといわれています。江戸中期この周辺が、それまでの江戸郊外の「村」から、正徳三(1713)年に江戸町奉行支配下の「町」に編入され 町域となった後も「本町」とは名乗らず「本村町」であった(同様の町名として「宮町」とはならなかった宮村町があります)。そして港区南麻布という無味乾燥な住居表示となった現在まで本村町の名を町会名として残し、 その由緒を伝えています。さらについ近年まで江戸期に町域を更に分割した「(あざ)」名を一時期町会名として残しており、その字名について 本村町会史(久松安 著)には、
~北東の方を「谷の戸」、北の方を「上之町」、西の方を「西之台」、南を「絶江」、延命院の南隣りの町家を「仲南町」と呼んだ。また、曹渓寺門前を 「大南町」と呼び、西福寺あたりを「川南町」と称した。

寛文元年、仙台の松平陸奥守が巣立野に下屋敷を賜るにおよんで、上之町から四の橋に通じる「海道」が新しくできて、道筋に面した町屋を「新町」と呼んだ。~
また、麻布区史は、

○上之町
北の方を指して呼ぶ。
○谷戸町
東北を云った。
○西之台
西の方を指す。一に御殿新道とも云った。これは地続きに白金御殿があったからである。 西の台は単に西に当たる高台と云う意に外ならない。
○絶江
一に絶口に作る。南の三ヶ町、即ち川南町・大南町・仲南町を呼んだ。この称は此の地の曹渓寺を開いた僧絶江和尚徳の成らしむるところである。
○川南町
新堀端とも称し、新堀川南を指す。
○仲町
新町とも云い、絶江の方面を別称した。
と、本村町における字の成立を伝えています。

さらに本村町を南は四之橋にい至り、北は麻布氷川神社~一本松~暗闇坂~鳥居坂を通る往還の尾根道と新たに作られた道筋である「新道」について「御府内備考」を引用して、
往古本村往還は同所東の方町裏に有之、奥州海道と申候。寛文元年丑年中松平陸奥守様御屋敷に相成候節右古道は御同人様御預り地に相成、新に道筋出来致候故新町と唱候 尤其砌は不残百姓商売家に御座候。~  
と、伝えています。


現在港区内で最大の管理区域を有する本村町会には、江戸期から伝わる麻布氷川神社の祭礼に使用された町神輿・山車の装飾品が残されており、その代表的なものが 毎年、麻布氷川神社例大祭時のみ本村町会神酒所に展示される、江戸後期の獅子頭一対と山車人形二体です。



○素盞鳴尊・武内宿弥の山車人形  
      
山車人形と獅子頭
本村町会神酒所の山車人形と獅子頭
   
「素盞鳴尊」山車人形
「素盞鳴尊」山車人形
   
「武内宿弥」山車人形
「武内宿弥」山車人形
      
武内宿弥山車人形の由緒書
本村町会神酒所の山車人形と獅子頭
山車人形の素材は「素盞鳴尊すさのおのみこと」と「武内宿弥たけのうちのすくね(別名:高良大神こうらおおかみ)」で素盞鳴尊は氷川神社のご祭神、武内宿弥は天皇を補佐した忠臣として、どちらも山車人形の素材として比較的多く使われています。 この武内宿弥を素材とする場合、神功皇后と対になっていたり、武内宿弥が幼い応神天皇を抱いているものもよく見かけることがあります。 この応神天皇は大宮氷川神社を勧進したという伝説もあり、氷川社とのつながりも浅からぬものがありますが、残念ながら本村町や他町会に応神天皇の山車人形があったのかは確認できていません。 また応神天皇の別称:誉田別尊命ほむたわけのみことは一般的に八幡神社の祭神であり、御田八幡神社においても主祭神として祀られている神様です。 

そして、同じく本村町会に保存されている昭和45(1970)年に書かれた武内宿弥人形の由緒書には不思議な文言が残されています。 天保3(1832)年に武内宿弥人形が作成された事と共に記されている武内宿弥の経歴は、明らかに御田八幡神社の由緒書きと同一の文章です。

御田八幡神社の遷座遍歴を見ると武蔵牧岡で勧進されたことが記されており、武蔵牧岡は現在の白金・三田周辺と いわれていることから、本村町の一部も牧岡であったとしても不思議ではありません。(麻布御殿が別称:白金御殿と呼ばれていたのと同義) そして本村町の一部の「字」が御田八幡神社の氏子であった可能性も、確証はないが否定もできないと思われます。 

そこで「武内宿弥人形の由緒書」を港区郷土資料館の学芸員にお見せしたところ、前半の御田八幡由緒部分と中盤以降の山車人形作成にまつわる部分は元々違う文章を、昭和45年に一つにまとめたものではないかという見解を示されました。 しかし、私にはこの由緒書は御田八幡と本村町の「いにしえ」のつながりを伝える文言に思えてなりません。

武内宿弥人形は近年、顔の塗り直し・衣装の一部を修復しており、素盞鳴尊人形も胴部の破損により展示が控えられていましたが、現在は修復した上で再び展示が行われています。 この二体の山車人形を修復保存するために昨年、「NPO法人 麻布氷川江戸型山車保存会」が立ち上がったそうで、将来は山車部分まで含めた完全復刻をするための活動が開始されるとのこと、今後の活動が楽しみです。 



○獅子頭
山車人形と共に本村町会には江戸期の獅子頭も保存されています。この獅子頭は雌雄1対の二体あり、由緒書によると文久2(1862)年作成とされています。 これは前述した山車人形が作成されてからちょうど30年後のことで、当時は主に氷川神社の宮神輿渡御の際の行列の先頭を進み、 巡幸路を清め祓うために使用されていたといわれています。時代は下りますが昭和10(1935)年に現在の千貫神輿が新調されたおりの巡行絵図が本村町会会館に残されており、その時の巡行にも先頭付近にこの獅子頭を見ることが出来ます。 そして、それ以来二度と行われなかった麻布氷川神社の宮神輿である千貫神輿巡行に変わって、つい最近までこの獅子頭を神輿に仕立てて本村町内を巡行していたそうです。

なを、この獅子頭の脇に展示されているのは四神の「青龍」と「朱雀」ですが、本来存在したと思われる「玄武」と「白虎」の行方は不明とのことです。  
   
獅子頭(雄獅子)
獅子頭(雄獅子)

   
獅子頭(雌獅子)
獅子頭(雌獅子)
   
獅子頭由緒書
獅子頭由緒書




獅子頭の由緒書で目を引くのは製作者「後藤三四良(郎) 橘恒俊」です。この彫刻師は山車彫刻・寺社彫刻でかなり有名であるようです。天保元(1830)年生まれとの ことなのでこの獅子頭を 作成したのは、恒俊が32歳のときとなり、また千葉を中心として寺社彫刻や山車への彫刻を手がけた彫刻師後藤義光の兄弟弟子であったようで、 父の「三次郎 橘恒俊」は京橋在住。恒俊の名は世襲であったと思われ、明治8(1875)年生まれの三四郎恒俊の子供である3代目恒俊も三四郎恒俊を名乗っています。 

また制作世話役の最上段に書かれている「氷川徳乗院現在栄運」とは、江戸時代すべての神社は別当寺に所属しており、 その寺の住職を別当(社僧)と呼びました。この別当は神事も行っていたので「栄運」という別当が麻布氷川神社の社務も執り行っていたものと考えられます。
★徳乗寺(徳乗院)
真言宗 (古義真言宗 冥松山 徳乗院  芝愛宕 真福寺末寺)
元文5(1740)年開基寂 氷川及び朝日稲荷別当 享保20(1735)年北日ヶ窪より本村に移り維新後廃絶(麻布区史)



○郷土資料館調査  
 





天保三年 麻布氷川大明神 御祭禮番付①

天保三年 麻布氷川大明神御祭禮番付①



天保三年 麻布氷川大明神 御祭禮番付②

天保三年 麻布氷川大明神御祭禮番付②








平成20年から平成21(2009)年にかけてこれらの祭礼用具について港区郷土資料館の調査が行われた。 その結果を「麻布氷川神社祭礼関係資料調査概要報告」として報告書が作成されその成果を、

★調査成果

  1. 山車人形2点  文久二(1862)年
  2. 獅子頭1対(2点)
  3. 幕5点
  4. 屏風1点
  5. 置物(鳳凰・龍)各1点
  6. 御神銘軸物1点
  7. 「氷川社」扁額1点
  8. 「麻布上之町」扁額1点
  9. 昭和41年銘扁額1点
  10. 神酒徳利4点(供箱) 文政十(1827)年
  11. 祭礼絵額1点 昭和10(1935)年

と、記しています。また調査の結語として、

★結語

麻布氷川神社祭礼は、記録によれば天保3(1832)年に山車の巡行を伴う大規模な祭礼が行われなくなったとされますが、その30年後に 一対の獅子頭が奉納(または制作)されていることは、祭礼の変化を考える上で重要です。現在判明している文政13(1830)年・天保3(1832)年 のいずれの祭礼番付にも獅子頭は描かれておらず、文久2年以降に何らかの理由があって祭礼に獅子頭が登場するようになったと考えられますが、 その理由や祭礼での位置付けは今後の課題といわねばなりません。麻布本村町会が管理しているこれらの祭礼用具は保存状態が良好で、 しかも複数の関連資料が周辺に存在します。今後は現地での聞き取り調査を深め、祭礼用具個々の詳細な記録化を行う予定です。
末筆になりますが、この調査に多大なご理解とご助力を惜しまなかった麻布本村町会各位に、深甚の謝意を表します。
などと報告されました。 



これらの貴重な江戸期麻布氷川神社の祭礼用品が本村町に残されているのは、幕末の動乱や震災、戦災そして、バブル期のなんでも金銭化してしまう発想から地元住民が全力で守ったことに 由来していると考えられます。つまり歴史的な資産が残されているのは単なる偶然ではなく、地域住民・町会関係者などの大変な努力の末に現在も引き継がれていると考えるのが妥当であると思われます。 

そして、麻布氷川神社の祭例時、本村町神酒所で年に一度のみ公開されるこの貴重な獅子頭・山車人形を、一人でも多くの方がご覧頂くことを願ってやみません。

◎ 2013年麻布氷川神社例大祭 : 9/14()・9/15(






○関連項目

むかし、むかし1-8 氷川神社
むかし、むかし12-199 本村町獅子頭の彫工 後藤三四郎橘恒俊 
釜無し横丁
むかし、むかし1-17 三田小山町
むかし、むかし4-65 徳川さんのクリスマス~麻布本村町(荒 潤三著)より
二つの東福寺の謎



○参考書籍・資料

・本村町会保存資料集
・麻布区史
・本村町会史
・江戸木彫史
・江戸神輿
・麻布氷川神社祭礼関係資料調査概要報告