麻布南部(現在の南麻布1~3丁目付近)の麻布
~北東の方を「谷の戸」、北の方を「上之町」、西の方を「西之台」、南を「絶江」、延命院の南隣りの町家を「仲南町」と呼んだ。また、曹渓寺門前を 「大南町」と呼び、西福寺あたりを「川南町」と称した。また、麻布区史は、
寛文元年、仙台の松平陸奥守が巣立野に下屋敷を賜るにおよんで、上之町から四の橋に通じる「海道」が新しくできて、道筋に面した町屋を「新町」と呼んだ。~
と、本村町における字の成立を伝えています。
- ○上之町
- 北の方を指して呼ぶ。
- ○谷戸町
- 東北を云った。
- ○西之台
- 西の方を指す。一に御殿新道とも云った。これは地続きに白金御殿があったからである。 西の台は単に西に当たる高台と云う意に外ならない。
- ○絶江
- 一に絶口に作る。南の三ヶ町、即ち川南町・大南町・仲南町を呼んだ。この称は此の地の曹渓寺を開いた僧絶江和尚徳の成らしむるところである。
- ○川南町
- 新堀端とも称し、新堀川南を指す。
- ○仲町
- 新町とも云い、絶江の方面を別称した。
さらに本村町を南は四之橋にい至り、北は麻布氷川神社~一本松~暗闇坂~鳥居坂を通る往還の尾根道と新たに作られた道筋である「新道」について「御府内備考」を引用して、
往古本村往還は同所東の方町裏に有之、奥州海道と申候。寛文元年丑年中松平陸奥守様御屋敷に相成候節右古道は御同人様御預り地に相成、新に道筋出来致候故新町と唱候 尤其砌は不残百姓商売家に御座候。~
と、伝えています。現在港区内で最大の管理区域を有する本村町会には、江戸期から伝わる麻布氷川神社の祭礼に使用された町神輿・山車の装飾品が残されており、その代表的なものが 毎年、麻布氷川神社例大祭時のみ本村町会神酒所に展示される、江戸後期の獅子頭一対と山車人形二体です。
○素盞鳴尊・武内宿弥の山車人形
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そして、同じく本村町会に保存されている昭和45(1970)年に書かれた武内宿弥人形の由緒書には不思議な文言が残されています。 天保3(1832)年に武内宿弥人形が作成された事と共に記されている武内宿弥の経歴は、明らかに御田八幡神社の由緒書きと同一の文章です。
御田八幡神社の遷座遍歴を見ると武蔵牧岡で勧進されたことが記されており、武蔵牧岡は現在の白金・三田周辺と いわれていることから、本村町の一部も牧岡であったとしても不思議ではありません。(麻布御殿が別称:白金御殿と呼ばれていたのと同義) そして本村町の一部の「字」が御田八幡神社の氏子であった可能性も、確証はないが否定もできないと思われます。
そこで「武内宿弥人形の由緒書」を港区郷土資料館の学芸員にお見せしたところ、前半の御田八幡由緒部分と中盤以降の山車人形作成にまつわる部分は元々違う文章を、昭和45年に一つにまとめたものではないかという見解を示されました。 しかし、私にはこの由緒書は御田八幡と本村町の「いにしえ」のつながりを伝える文言に思えてなりません。
武内宿弥人形は近年、顔の塗り直し・衣装の一部を修復しており、素盞鳴尊人形も胴部の破損により展示が控えられていましたが、現在は修復した上で再び展示が行われています。 この二体の山車人形を修復保存するために昨年、「NPO法人 麻布氷川江戸型山車保存会」が立ち上がったそうで、将来は山車部分まで含めた完全復刻をするための活動が開始されるとのこと、今後の活動が楽しみです。
○獅子頭
山車人形と共に本村町会には江戸期の獅子頭も保存されています。この獅子頭は雌雄1対の二体あり、由緒書によると文久2(1862)年作成とされています。 これは前述した山車人形が作成されてからちょうど30年後のことで、当時は主に氷川神社の宮神輿渡御の際の行列の先頭を進み、 巡幸路を清め祓うために使用されていたといわれています。時代は下りますが昭和10(1935)年に現在の千貫神輿が新調されたおりの巡行絵図が本村町会会館に残されており、その時の巡行にも先頭付近にこの獅子頭を見ることが出来ます。 そして、それ以来二度と行われなかった麻布氷川神社の宮神輿である千貫神輿巡行に変わって、つい最近までこの獅子頭を神輿に仕立てて本村町内を巡行していたそうです。
なを、この獅子頭の脇に展示されているのは四神の「青龍」と「朱雀」ですが、本来存在したと思われる「玄武」と「白虎」の行方は不明とのことです。
獅子頭(雄獅子)
獅子頭(雌獅子)
獅子頭由緒書
獅子頭の由緒書で目を引くのは製作者「後藤三四良(郎) 橘恒俊」です。この彫刻師は山車彫刻・寺社彫刻でかなり有名であるようです。天保元(1830)年生まれとの ことなのでこの獅子頭を 作成したのは、恒俊が32歳のときとなり、また千葉を中心として寺社彫刻や山車への彫刻を手がけた彫刻師後藤義光の兄弟弟子であったようで、 父の「三次郎 橘恒俊」は京橋在住。恒俊の名は世襲であったと思われ、明治8(1875)年生まれの三四郎恒俊の子供である3代目恒俊も三四郎恒俊を名乗っています。
また制作世話役の最上段に書かれている「氷川徳乗院現在栄運」とは、江戸時代すべての神社は別当寺に所属しており、 その寺の住職を別当(社僧)と呼びました。この別当は神事も行っていたので「栄運」という別当が麻布氷川神社の社務も執り行っていたものと考えられます。
★徳乗寺(徳乗院)
真言宗 (古義真言宗 冥松山 徳乗院 芝愛宕 真福寺末寺)
元文5(1740)年開基寂 氷川及び朝日稲荷別当 享保20(1735)年北日ヶ窪より本村に移り維新後廃絶(麻布区史)
○郷土資料館調査
平成20年から平成21(2009)年にかけてこれらの祭礼用具について港区郷土資料館の調査が行われた。 その結果を「麻布氷川神社祭礼関係資料調査概要報告」として報告書が作成されその成果を、 ○関連項目 ・むかし、むかし1-8 氷川神社○参考書籍・資料 ・本村町会保存資料集 |