今日から始まるNHK連続テレビ小説「
花子とアン」予告を見ていて、主人公村岡花子・旧姓:安中 はな(吉高由里子)が通うことになる女学校の名前と、友人となる「葉山蓮子(仲間幸恵)」の名前からおやぁ?という思いを抱いてしまいました。それはこの主人公の友人である葉山蓮子とは、柳原白蓮、そして通っていた女学校は東洋英和ではないかと思いました。
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安中はなが上京後入学した
東京府荏原郡品川町立城南小学校。
ここから1903(明治36)年、東洋英和
女学校に編入学することとなります。 |
早速実在する赤毛のアンの翻訳者「
村岡花子」を調べてみると、やはりドラマの主人公が通う女学校は東洋英和であり実際に
柳原白蓮(ドラマでは葉山蓮子)と交友があったことがわかりました。
村岡花子(安中 はな)は1893(明治26)年甲府生まれで、やがてカナダメソジスト派の甲府教会で幼児洗礼をうけます。そしてドラマとは少し違いますがはなが5歳の年に家族で甲府から上京し、南品川に居住(現在の京浜急行青物横丁辺)して父親はそこで葉茶屋を開業します。そして7歳の時に大病をしたはなは、辞世の句を詠んだといわれています。(ドラマでは甲府で大病をしたことになっていますが、実際には南品川に住んでいた頃のことです。)
その時の辞世の句は、
まだまだとすごしおもいおるうちに、はや死のみちへむかうものなり
というものでした。
そして1903(明治36)年、10歳の時に
東京府荏原郡品川町の
城南尋常小学校から
麻布区東鳥居坂町の
東洋英和女学校へ編入することとなり、ここで出会ったのが柳原白蓮でした。
柳原白蓮(燁子あきこ)は柳原前光伯爵の妾腹の令嬢で1885(明治18)年10月15日生れということなので村岡花子より8歳年上となりますが、柳原白蓮が一度結婚し、離婚した後に東洋英和に入学した関係で村岡花子が柳原白蓮の上級生となっていたようです。
10歳(16歳との説は誤りとのこと[東洋英和女学院資料室談])で東洋英和女学校に編入した村岡花子には孤児院での奉仕活動が義務付けられ、成績が悪いと即退学という給費生の待遇でしたが当時の東洋英和女学校は、予科(2年)本科(5年)高等科(3年)で、予科と本科の学生は学年で20名ほど。うち高等科まで進むのは6、7名だったそうです。8歳年上の下級生柳原白蓮は24歳でしたが、二人は親交を結び「花ちゃん」、「燁さま」と呼び合う仲であったそうです。また、二人が学んだ校舎は創立地である鳥居坂14番地から1900年に移転したばかりの校舎(現在地)であり、その校舎は後の1933(昭和8)年、西町インターナショナルスクール松方ハウス、明治学院礼拝堂、フレンズセンター、南部坂教会なども設計した建築家
ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計する校舎となります。余談ですが、ヴォーリスが東洋英和女学校の設計を依頼されていた校舎の工事中、麻布区役所(現在の麻布総合支所の場所ではなく、当時は麻布仲ノ町角にありました。)の移築を依頼されます。といってもその麻布区役所の建物は元々ヴォーリスの設計ではなかった(東京市営繕課設計とのこと)のですが、移築計画立案と移築後の再設計を依頼されたようです。ちなみにこの建築物は「日本獣医学校(現・
日本獣医生命科学大学)」の校舎として現在も使用されています。
話を明治に戻すと、
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1933(昭和8)年建築。ヴォーリス設計の雰囲気を残して
近年改築された現在の東洋英和女学院。校舎がこの地に
移転した4年後の1903(明治36)年に「安中はな」が編入
してきます。 |
「孤児院での奉仕活動義務」に関してもしかしたら?という根拠はありませんが、あくまでも想像としてのお話を紹介します。
それはこの東洋英和女学校が経営母体となっていた「永坂孤女院」についてのお話です。
ご承知の通りこの施設、永坂教会孤児院は、
1894(明治27)年麻布十番に住む貧しい三人の子のうち一人が売られようとしているのを知った東洋英和女学校の生徒が、有志をつのり、その子と他の一人を引取り麻布教会(現・鳥居坂教会)が孤児院を設置。
1904(明治37)年、麻布教会(現・鳥居坂教会)孤児院が麻布一本松町から麻布本村町に移転。
麻布教会(現・鳥居坂教会)孤児院が麻布本村町から麻布永坂町50番地(現在の十番稲荷神社社地)に移転し「永坂孤女院」となる。
とされていますので、安中はな(村岡花子)が学校からもほど近い一本松~本村町~長坂町(現在の
十番稲荷神社の場所)と変遷を重ね、永坂孤女院となる施設で奉仕義務を果たしていたと考えるのは無理ではないと思われます。
もしそうだとすると、赤い靴のきみちゃんのモデルとなった「岩崎きみちゃん」とも会っている可能性があります。
同 年 代 の 関 連 年 表
西 暦 | 年 号 | 事 象 |
1875年 | 明治 8年 | 1月麻布市兵衛町の静寛院宮(皇女和宮)邸に明治天皇・皇后が行幸
5月麻布市兵衛町の静寛院宮邸に明治天皇・皇后が再び行幸
4年前芝新銭座から三田に移転した慶応義塾構内に演説館が開館。
赤坂溜池の埋め立て始まる。
三田四国町で清水誠がマッチ製造を開始する。
麻布区市兵衛町2丁目63番地で麻布小学校開校。 |
1876年 | 明治 9年 |
麻布宮村町暗闇坂下で南山小学校が開校。
芝内山(現・飯倉交差点付近)に海軍軍人の社交機関が設置され、のちに「水交社」となる。 |
1877年 | 明治10年 | 麻布市兵衛町に屋敷を構える静寛院宮(皇女和宮)が静養先の箱根で逝去。
品川~新橋間に無軌道馬車開通。
内務省が三田育種場を設置
西南戦争で西郷隆盛敗死。
10月学習院開校。
E.モ-スが大森貝塚を発見。 |
1878年 | 明治11年 | 飯倉小学校開校 |
1879年 | 明治12年 | 三田育種場興農競馬場が薩摩藩邸跡に設置される |
1881年 | 明治14年 | 明治天皇が公爵島津忠義麻布本村町邸に岩倉右大臣、西郷参議、河村海軍卿を供奉して行幸。古式の犬追い物、相撲を天覧
芝公園で紅葉館が開業 |
1882年 | 明治15年 | 川村純義狸穴邸がジョサイア・コンドル設計により建設される。戦後この建物は取り壊され東京アメリカンクラブとなる。
麻布区による公共水道の「麻布水道」が完成する。
清原玉は夫となるラグ-サの故郷イタリア、シシリ-島パレルモのカトリック寺院でスカレニア公爵婦人の仲介で挙式をあげ、エレオノラ・ラグ-サと改名した。
江戸期の駒込栴檀林が麻布区日ヶ窪(現在の六本木ヒルズ)に校地を得て移転し、校名を曹洞宗大学林専門本校と改めた。これをもって駒沢大学の開校の記念日となる。
このころ麻布我善坊、三田綱町、白金今里町などで乳牛の飼育が行われる。 |
1883年 | 明治16年 | 築地居留地のカナダ・メソジスト・ミッションにより東鳥居坂町に麻布教会(現在の鳥居坂教会)」が設立される。 |
1884年 | 明治17年 | カナダ・メソジスト・ミッションが同派「麻布教会(現在の鳥居坂教会)」牧師を設立者として東洋英和学校会社を設立。
10月東鳥居坂町14番地400坪弱のビール工場跡地に東洋英和女学校創立。創立時の生徒数は2名。次年度は170名。
11月東鳥居坂町13番地、元駐仏公使鮫島尚信邸跡地2,200坪に東洋英和学校(男子)が創立。普通科・神学科を併設。 |
1885年 | 明治18年 | Ms.スペンサーが来日。東洋英和女学校の教師(家事・英語・唱歌担当)を経て同校の第二代校長に就任。 |
1886年 | 明治19年 | 一致英和学校、英和予備校、東京一致神学校の3校が合併して「明治学院」が開校する。
青山練兵場設置 |
1887年 | 明治20年 | Ms.スペンサーが東洋英和学校教師のT.A.ラージ氏と結婚。娘ケートが生まれる。
4月井上馨邸(現・国際文化会館)に天皇が行幸して天覧歌舞伎
麻布本村町津田 仙(津田梅子の父)邸の仮校舎で普連土女学校が開校
高輪の伊藤博文邸で憲法の草案を討議 |
1888年 | 明治21年 | 麻布区永坂町1番地の島津忠亮子爵邸の一部を借り受けて香蘭女学校が創立。
東京天文台が麻布飯倉町に設立される。
トーマス・グラバーが長崎から上京して「芝公園地53号」に屋敷を構える |
1889年 | 明治22年 | 芝西応寺に樋口一葉が寄宿。2月大日本帝国憲法発布祝賀のため東洋英和女学校生徒が井上馨邸(現・国際文化会館)を訪問
5月明治天皇が麻布新竜土町の通称:麻布三連隊(陸軍第一師団第三連隊)を閲兵
7月シーボルトの娘楠本イネが長崎から麻布我善坊町25番地に転居(62歳)
江原素六が沼津から上京し東洋英和学校(男子)の幹事となる。 |
1890年 | 明治23年 | 4月東洋英和女学校で強盗事件(ラージ殺人事件)。第二代校長の夫T.A.ラージ氏が殺害され、婦人の校長Mrs.ラージも指を2本失う重傷。事件後恩賜休暇によりカナダに帰国して休養、義指作成。
7月第一回衆議院議員選挙
江原素六が衆議院議員となり東洋英和学校幹事を辞任する。 |
1891年 | 明治24年 | 2月明治天皇が麻布市兵衛町の内大臣三条実美を見舞うために行幸
4月明治天皇が麻布狸穴町の伯爵、川村純義邸(ジョサイア・コンドル設計、現在の東京アメリカンクラブ敷地)に行幸
5月楠本いねが麻布区麻布仲ノ町6番地に転居(64歳)
Mrs.ラージが再来日し東洋英和女学校英語教師となる。 |
1892年 | 明治25年 | 5月楠本いねが麻布区麻布仲ノ町11番地に転居(65歳)
このころ 森元三座が盛況する。 |
1893年 | 明治26年 | トーマス・グラバーの芝公園邸が火事により焼失。
6月山梨県甲府市の安中逸平・てつ夫妻の長女として「安中はな(後の村岡花子)」が生まれる。(0歳)
6月江原素六が東洋英和学校の校長となり校舎内に居住。 |
1894年 | 明治27年 | 麻布十番に住む貧しい三人の子のうち一人が売られようとしているのを知った東洋英和女学校の生徒が、有志をつのり、その子と他の一人を引取り麻布教会(現・鳥居坂教会)が孤児院を設置。 |
1895年 | 明治28年 | 5月楠本いねが麻布区麻布飯倉片町32番地に転居(68歳)
安中はな(村岡花子)が2歳で幼児洗礼を受けクリスチャンとなる。
Mrs.ラージがカナダに帰国。
南山小学校が暗闇坂下から現六本木高校の地に移転、後年藤棚校舎と呼ばれる。
新橋~八ッ山間に馬車鉄道開通 |
1896年 | 明治29年 | 芝給水場完成 |
1897年 | 明治30年 | Mrs.ラージが三度目の来日。 |
1898年 | 明治31年 | 安中はな(村岡花子)の家族(夫婦と子供8人)が一家で上京し南品川に居住する。(5歳) |
1899年 | 明治32年 | 4月安中はな(村岡花子)が城南尋常小学校(現在の品川区立城南小学校)に入学する。(6歳)
4月Mrs.ラージが強盗事件により死亡した夫T.A.ラージ氏墓所敷地の一部をフルベッキ氏墓地としてエンマ・バーベックに委譲。
7月居留地制度が撤廃される。 |
1900年 | 明治33年 | 東洋英和女学校が創立地である東鳥居坂町14番地から現在地(東鳥居坂町8番地:1,225坪)へ移転。
東鳥居坂町13番地の麻布中学が東洋英和学校(男子)から分離独立し、麻布本村町40番地(現在地)に移転。後に東洋英和学校は廃校となる。
志賀直哉が父と共に麻布三河台町に転居。 |
1901年 | 明治34年 | Mrs.ラージが帰国し晩年は農場経営に従事する。
7月川村純義狸穴町邸(コンドル設計、現在は東京アメリカンクラブ)で迪宮殿下(後の昭和天皇)の養育が始まる。
府立第3高等女学校(現都立駒場高校)が現六本木中学の地で創立。 |
1902年 | 明治35年 | 1月日英同盟調印発効
7月静岡県の不二見村で岩崎きみちゃん誕生
12月ラージ殺人事件解決
本村小学校が創立
旧紀州藩主徳川頼倫邸(現港区立麻布小学校)内に「南葵文庫」が設立される。 |
1903年 | 明治36年 | 3月久邇宮家の鳥居坂邸で女児が誕生。良子と名づけられたその姫は後に昭和天皇の后(香淳皇后)となる。
安中はな(村岡花子)が城南尋常小学校から東洋英和女学校に編入学(10歳)
8月楠本イネが麻布区飯倉片町28番(東洋英和女学校裏手)にて逝去。享年76歳
新橋~八ッ山間に電車開通
三田の慶応グランドで第1回早慶戦野球。 |
1904年 | 明治37年 | トーマス・グラバーが芝公園から麻布富士見町に移転する。
麻布教会(現・鳥居坂教会)孤児院が麻布一本松町から麻布本村町に移転。
2月日露戦争が勃発。
川村純義狸穴町邸で養育されていた迪宮殿下(後の昭和天皇)が川村の逝去により皇居に戻る。
ジョサイア・コンドルが麻布三河台町に自邸を建設する。 |
1905年 | 明治38年 | 日露戦争が米国仲裁によるポーツマス条約により講和
麻布日ヶ窪の曹洞宗大学林専門本校(後の駒沢大学)が曹洞宗大学と改称する。
古川の埋め立てが始まる。
芝丸山で古墳群が発見される。 |
1906年 | 明治39年 | 3月市電7系統広尾線(天現寺-青山1丁目)が開通 |
1907年 | 明治40年 | 笄小学校が創立 |
1908年 | 明治41年 | 麻布教会(現・鳥居坂教会)孤児院が麻布本村町から麻布永坂町50番地(現在の十番稲荷神社社地)に移転し「永坂孤女院」となる。そして集合写真「永坂孤女院1908(M41)階下は日曜学校」が撮影される
三菱財閥2代目岩崎弥之助の邸宅としてジョサ・イアコンドル設計の高輪開東閣が建設される。
11月市電古川線 (4・5・7・8・34系統) 天現寺橋 - 四ノ橋間が開業
12月市電古川線 (4・5・7・8・34系統) 四ノ橋 - 一ノ橋間が開業
白金で聖心女学院開校 |
1909年 | 明治42年 | 6月市電古川線 (4・5・7・8・34系統)一ノ橋 - 赤羽橋間開業 |
1911年 | 明治44年 | 8月市電六本木線御成門 - 麻布台町(六本木?)間開業
9月岩崎きみちゃんが結核により永坂孤女院で死亡。享年9歳
12月市電古川線 (4・5・7・8・34系統) 赤羽橋 - 芝園橋間が開業 |
1912年 | 明治45年 | 6月市電六本木線 (3・8・33系統) 青山一丁目 - 六本木間開業
市電札の辻線(3・8系統) 飯倉一丁目 - 赤羽橋 - 札ノ辻が開業 |
1913年 | 大正 2年 | 安中はな(村岡花子)が東洋英和女学校高等科を卒業。英語教師として山梨英和女学校に赴任。(20歳)
三田綱町の三井倶楽部が三井財閥の賓客接待用として建設される。(設計はジョサイア・コンドル)
曹洞宗大学(後の駒沢大学)が麻布日ヶ窪(現六本木ヒルズ)がら荏原郡駒沢村(世田谷区駒沢)の現在地に移転。
4月市電恵比寿線 (豊沢線、天現寺線とも) 天現寺橋 - 恵比寿(伊達跡)間開業
9月市電目黒線 (4・5系統)(古川橋) - 白金志田町 - 白金郡市境界(白金火薬庫前(上大崎))間開業
9月市電伊皿子線 (4・5・7系統) 古川橋 - 白金志田町(魚籃坂下)間開業
11月東町小学校が開校 |
1914年 | 大正 3年 | ヴォーリズ(William Merrell Vories)設計による明治学院チャペルが建設される。
2月市電目黒線 (4・5系統) 白金郡市境界(元白金火薬庫前) - 目黒駅前間開業
3月市電古川線 (4・5・7・8・34系統)芝園橋 - 金杉橋間開業
9月市電霞町線 (6系統)(麻布三河台) - 六本木 - 青山六丁目(南青山五丁目)間開業
北原白秋が十番に転居 |
1915年 | 大正 4年 | 5月市電六本木線 (3・8・33系統) 宇田川町(浜松町一丁目) - 御成門間開業 |
1917年 | 大正 6年 | 大倉集古館設立
田町の柳沢邸で坂田三吉、関根金次郎が対局。 |
1918年 | 大正 7年 | 元初代ハワイ総領事の安藤太郎が麻布区西町に安藤記念教会を設立
板垣退助の妻板垣絹子が広尾に順心女学校を創立
徳川頼貞侯爵邸(現港区立麻布小学校)内にヴォーリズ設計による「南葵楽堂」が設立。 |
1919年 | 大正 8年 | 9月市電伊皿子線 (4・5・7系統) 白金志田町(魚籃坂下) - 車町(泉岳寺前)間開業
麻布十番に末広座が開業 |
1920年 | 大正 9年 | 永井荷風が麻布市兵衛町に偏奇館を建てる。 |
1921年 | 大正10年 | 松方正義の子、正熊の自邸としてヴォーリズ設計による松方ハウス(現西町インターナショナルスクール)が建設される。
6月市電天現寺橋線 (8・34系統系統) 渋谷 - 渋谷橋間開業 |
1923年 | 大正12年 | ヴォーリズ設計によりフレンズセンター(キリスト友会日本年会)が建設
9月関東大震災
震災直後エノケンが十番商店街で炊き出し |
1924年 | 大正13年 | 5月市電天現寺橋線 (8・34系統系統)渋谷橋 - 天現寺橋間開業 |
1925年 | 大正14年 | 6月市電霞町線 (6系統) 溜池 - 六本木間開業 |
1933年 | 昭和 8年 | Mrs.ラージがアメリカ・ペンシルバニア州にて逝去。
東洋英和女学校校舎がヴォーリス設計により建設される。
麻布区役所新庁舎が完成。旧庁舎はヴォーリス監修により移築され日本獣医畜産大学(現・日本獣医生命科学大学:三鷹市武蔵境)校舎として現在も使用中。
麻布南部坂教会がヴォーリス設計により建設される。 |
さらにこの時代、永坂孤女院に併設されていた「日曜学校」の校長は
江原素六でした。
あくまでも想像ですが、安中はな(村岡花子)、岩崎きみちゃん、江原素六には面識があったのではないでしょうか?
詳細はこちらでご確認下さい。
◎
Blog DEEP AZABU-永坂孤女院1908
話を本筋に戻すと....
柳原白蓮は後に大正昭和期の歌人となりますが一方では奔放な性格、そして大正三美人の1人でもありました。この柳原家の屋敷は現在の元麻布にある中国大使館の場所(約3300坪ほど。1922年に箱根土地に売却分譲。)にあったので、ドラマで主人公の村岡花子が下宿することになる屋敷はこの柳原邸がモデルとなっているようです。ちなみに柳原白蓮は南山小学校の卒業生でもあり、1892(明治25)年に
南山小学校入学とありますから卒業は18期(明治30年)~20期(明治32年)頃と思われますが、残念ながら卒業名簿には「柳原白蓮」、「宮崎樺子」、「柳原燁子」名での記載はありませんでした。
(※白蓮は南山小学校入学後の1894(明治27)年、9歳で遠縁にあたる子爵・北小路随光の養女となり小学校も転校となったようですので当然南山を卒業はしていないことが解りました。)
少し時代はさかのぼりますが、村岡花子が東洋英和女学校に編入する二年前の1902(明治35)年
ある事件が14年ぶりに解決します。その事件とは.....。
明治23年(1890年)4月4日、東洋英和女学校に強盗が押し入り、校長であるラージ婦人が傷を負い、さらにその夫であるラージ氏が殺害されるという「
ラージ殺人事件」が起きます。当時の東洋英和は、現在の場所とやや離れた潮見坂と於多福坂が合流する地点にあり、潮見坂上に男子校で後に麻布中学として独立することになる「東洋英和学校」がありました。
そして、この男子校には当時
江原素六がいました。江原はその年の7月に行われる第一回衆議院選挙に立候補するために静岡から上京し、東洋英和学校幹事(教頭と事務長を兼ねたような役職)となっていました。ちなみに江原は静岡時代にカナダメソジスト派の宣教師として布教活動を行っていましたが、宣教師のままでは立候補できなかったので職業としてとしての「肩書き」を得るために東洋英和学校幹事就任を引き受けたようです。
一方校長夫ラージ氏殺害事件がなかなか解決しない影響から、寄宿生活をしていた学生を心配した親が引き取ることが増えて行きます。
そんな一人に「中野ワカ」という学生がおりました。中野ワカの父(イギリス人)は娘の東洋英和女学校での寄宿生活に危険を感じ、当時東洋英和からもほど近い芝公園に息子名義の屋敷(当時外国人の土地取得・借地は出来なかったため和名を持つ息子の倉場三郎名義で借地する)を持ち(現在の芝妙定院脇にある芝公園テニスコート辺)交友があった
トーマス・グラバーに依頼してその屋敷に寄宿することとなります。そして後、グラバーの長男
倉場富三郎の妻となります。
一方、村岡花子は1914(大正3)年に東洋英和女学校を卒業すると教師として山梨英和女学校に赴任し、その後東京銀座のクリスチャン系の出版社に勤務することになります。
この村岡花子が東洋英和女学校、柳原伯爵邸で過ごした(ドラマの設定上ですが)頃より少し前(明治中期~後期)のこのあたりは、著名外国人や元勲の屋敷が多くありました。
・
井上馨邸(国際文化会館→宮村町内田山)
・井上馨転居後同地に屋敷を構えた
久邇宮家で生まれた
昭和天皇后(香淳皇后)
・同志社設立資金を得るため井上馨鳥居坂邸を訪れた
新島襄
・
北里柴三郎(麻布仲ノ町元麻布区役所前辺)
・
福沢捨次郎(
福沢諭吉子息)(麻布仲ノ町、元の麻布区役所前辺)
・
高木兼寛(鳥居坂上脇)
・
柳原前光(現・中国大使館)
・
松方正義(三田[現・イタリア大使館の本邸]、仙台坂邸[現・韓国大使館]、
西町邸[現・
西町インターナショナルスクール松方ハウス])
・
芳川顕正(宮村町内田山[現・南山小学校上部])
・
渡辺国武子爵邸(がま池)
・
ジョサイア・コンドル(麻布三河台町)
・
トーマス・グラバー(芝公園→麻布富士見町)
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周辺地図 |
そして1889(明治22)年から亡くなる1903(明治36)年までの最晩年を過ごした
楠本いね(シーボルトの娘)が東洋英和女学校からもほど近い飯倉片町辺を中心に数度の転居を繰り返し、亡くなったのは東洋英和女学校の母体であるカナダメソジスト教会(現在は東洋英和の一部となっている)のすぐ脇のあたりでした。
(このことから私は個人的に、最晩年の「楠本いね」はクリスチャンであった可能性が棄てきれないとの思いを持っています。)
さらに1908(明治41)年、東洋英和女学校とカナダメソジスト教会が永坂脇(現在の十番稲荷神社の地)に「永坂永坂孤女院」と日曜学校が設立します。
そしてこの日曜学校の校長は江原素六でした。江原は東洋英和学校(男子)から麻布中学を分離する際に東洋英和との関係を絶ったとの記述も多く見られますが、実際にはカナダメソジスト教会を通して東洋英和とのつながりを維持していたものと思われます。
この江原素六が校長をしていた日曜学校の写真が「永坂孤女院1908(M41)階下は日曜学校」というタイトルで東洋英和女学院の周年誌に載せられています。おそらく開設当時の記念写真だと思われますが、数人の大人と共にたくさんの少年少女が写されています。この中には当時この孤女院で生活をしていた「岩崎きみちゃん」(童謡赤い靴のモデルとなった女の子)が写されている可能性があり、また当時この日曜学校の校長であった江原素六が写っている可能性も(というか、当時は大変に貴重だったと思われる写真撮影に中心となる校長が写っていない方が不自然)
この写真を麻布高校、沼津の江原素六記念館に鑑定をお願いしましたが、残念ながら双方共に「江原素六が写っている確認は出来なかった」というものでした。私の目から見ると。
写真中央部一階奥に首だけ写っている彫りの深い外国人のような顔立ちの男性が江原素六に見えるのですが.....。
詳細はこちらでご確認下さい。
◎
Blog DEEP AZABU-永坂孤女院1908
また、
「カナダメソジストミッションの教育活動-女子教育を中心として-」
という論文には、ラージ事件の様子を、
2 代目校長の Eliza Spencer
は男子校で教えていた Thomas A. Large 夫人となったがトロント市立高等中学をおえ
教員生活を送った気丈な女性で学校経営に手腕を示し任期中に大変な発展をみせた。しか
しその反面不幸な事件に見舞われた。 1890 年 4 月夫妻は夜間侵入してきたふたりの強盗に
深傷をおわされ夫君は即死,夫人もまた重傷を負った。ラージ殺害事件として喧伝され,
警視庁は犯人捜査のため 300 円の賞金をかけるなど異例の措置をとったが迷宮入りとなっ
た。多くの容疑者のなかには自称硯友社員柵山入こと堀本貞一もいた。真犯人は別件逮
捕で服役中のものの自白から 13 年後になってようやく判明したが Large 夫人はその間一
言の愚痴もこぼさなかった。一旦帰国後 1897 年万国婦人キリスト教矯風会から派遣されて
来日した。
と記しており、さらに村岡花子・について、
甲府市出身の村岡花子は山梨英和には入らず
東洋英和をえらび高等科を卒業した。童話作家, 翻訳家であると共にラジオの子供の時
間を担当して親しまれ, 戦後は居住地である大田区の教育委員として活躍した。翻訳も
Montgomery の一連のアン物語や Mark Twain のものばかりでなく,シカゴに米国最
初のセツルメント Hull House をたて婦人参政権運動や平和運動の指導者となりノーベ
ル平和賞を受けた Jane Addams の伝記なども手がけている。歌人として知られている
宮崎樺子(白蓮)が不幸な結婚に破れ,のち東洋英和に入学したのは大江スミのすすめに
よるものであった。ここで白蓮は上級生の村岡花子からあたたかく迎えられた(神崎清編
「現代婦人伝」)。白蓮は封建的家族制度の因襲を自から破った女性解放の実践者といえよ
う。戦後は夫君竜介と共に中国を訪問して国交回復の露払いの役を買って出たり,戦争で
長男を失ったことから発心し国際悲母の会を結成して,なくなるまで地域を中心に平和運
動をつづけたりした。
とあります。
いづれにせよ明治期の麻布中央部は居住者の豪華さからいろいろなネタが転がっています。
ここでお伝えした「ラージ殺人事件」については当所思っていた局所的な強盗事件という
見方でお伝えしましたが、当事者末裔の方による情報などを勘案すると、事件は国際情勢も
含めた当時の日本外交の姿勢を根本から揺るがすような事件としての広がりを見せ始めています。
具体的には迷宮入りしていた事件が13年後に解決するという不自然な展開と、その解決には
悲願である不平等条約改正をねらった日英同盟の締結という一見なんの関わりもないことが
もしかしかしたら関与していた可能性をも感じ取りました。そしてそれを推進していた人物は?
....井上馨が浮かび上がってきます。
詳細はいずれお知らせすることが出来ると思いますので、それまでしばらくお待ち下さい。
★関連項目
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続・「花子とアン」の麻布~「アンのゆりかご」に描かれた麻布
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東洋英和ラージ殺人事件
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東洋英和女学院オフィシャルサイト
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赤毛のアン記念館・村岡花子文庫
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大森めぐみ教会
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永坂孤女院1908
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赤い靴のきみちゃん