天保三年 麻布氷川大明神 御祭禮番付① |
天保三(1832)年に描かれた「麻布氷川明神御祭禮番付」にはたくさんの山車が描かれていますが、神輿は宮神輿と思われるものが最後列にあるだけです。
これについて「江戸神輿」(小沢宏著)という書籍の中で麻布氷川神社宮神輿を作成した「宮惣」の五代目村田桂一氏が「江戸神輿の歴史」と題した文中、
~略~東京で祭りといえばすぐに神輿を連想するほど、祭りと神輿をきり離しては考えられない。~中略~しかしかつて江戸の祭りの主役は山車によってしめられていた。 ~中略~山車は神輿よりもはるかに大きく、構造上の制約がないので工夫の余地もあり、奇抜な趣向をもりこむことも自由で、作るほうの立場から見ても好適な素材 といえる。~略~などと記しており、江戸期における祭りの主役が山車であったことを伝えています。そして同時に山車の豪華さと自由な発想が時には幕府の禁忌に触れたとされており、 さらに明治初期に山車から
天保三年 麻布氷川大明神 御祭禮番付② |
・国家神道設立に向けた法令等の変更など首都ならではの「近代化」という事情をあげており、またこの主役交代は東京以外にはあまり見られないと、神輿主役への変遷を東京独自のものとしていいます。
・電灯線敷設
・市電開通
また、江戸期の祭りについて、
~江戸時代の祭礼で隔年毎に行われていたのは、山王、神田の両社だけで、その(他の)神社の祭礼は必ずしも定期的に行われていたとはかぎらない。と記しており、享保二十(1735)年の記録で「麻布氷川毎年例祭」と記録されているのも、祭礼が毎年行われていたことの特異性を訴えたかった事によるのかも知れません。 しかし麻布氷川神社の
深川八幡では寛政7(1795)年から文化4(1807)年の12年間、浅草三社では天明元(1781)年から文政6(1823)年の四十三年もの長い間祭りが途絶えていたとは、 今日の両社の祭りの盛況を知るものにとってはまさに驚異的な事実である。
このように天下祭偏重の中にあって、江戸の各神社は何年かに一度の祭礼をそれぞれの慣習と世情にあわせてとり行ってきたが、すべての神社に神輿が 整備されているという状態ではなかった。~
本村町会所蔵獅子頭と山車人形 |
麻布氷川神社の祭礼は文政五(822)年から天保3(1832)年まで10年間祭礼が開催されなかったとの記述がありますが、天保三(1832)年の祭礼時には 祭礼番付も発行され、また同年には武内宿弥人形(本村町会に現存)が制作されています。 しかし、この年に発行された「麻布氷川明神御祭禮番付」には何故かこの武内宿弥人形は描かれていません。いづれにせよ当時行われた麻布氷川神社の祭礼は化政文化のまっただ中である氏子や氏子町会らの熱望等の世情の高まりから華美な傾向で行われた様子がうかがえます。
そして30年後の文久二(1862)年には名工後藤三四郎により本村町の獅子頭が作成されます。この時代は武内宿弥人形が制作された30年前とは世相が一変しており、世の中は幕末攘夷運動のまっただ中でした。 獅子頭が作成される四年前の安政6(1859)年にアメリカ公使館が麻布山善福寺に設置されたことによる襲撃事件や暗殺事件が麻布周辺で頻発するに及んで、それまで遠い世界の事であった「攘夷」がごく身近な問題として 麻布氷川神社氏子町会や住民にのしかかってきたことが想像されます。
獅子頭は祭りの山車や神輿の巡行では行列の先頭を進み、魔を払う役割を担っていました。想像の域を出ないのですが、この時期に獅子頭を新調したのは祭礼の神輿・山車の巡行道中の間近にいる夷狄(アメリカ公使館員やその場所を訪れる諸外国外交官など)を打ち払い、 祭礼中に攘夷事件が起こらないようにとの願いが込められたものと思えてなりません。
いずれにせよ、多くの住民の不安と切なる願いが込められて作成されたと想像される本村町の獅子頭は、その願いを現代に伝えています。
この貴重な山車人形と獅子頭は当時のままの姿を現在も本村町会が保存しており、麻布氷川神社祭礼時のみ本村町会神酒所で公開されています。
麻布本村町会所蔵山車人形由緒書 |
麻布本村町会所蔵獅子頭 由緒書 |
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