★麻布の橋-その2-3
字雷神下とその周辺
字雷神下とその周辺
狸蕎麦の梅屋敷とその水車をお伝えしましたが、少し気になることが。
この「狸蕎麦」という里俗の地名は江戸期の古地図にも描かれているのですが、水車の所在地を示す住所は、
この「狸蕎麦」という里俗の地名は江戸期の古地図にも描かれているのですが、水車の所在地を示す住所は、
「芝区白金三光町字雷神下165番地」
で狸蕎麦という地名は使われていません。
もちろん麻布などの他地域でも住所として使われていない里俗の名称は、内田山、大隅山、薮下、麻布山、鷹石などたくさんありますがこれらは新聞などの用語として頻繁に登場します。
もちろん麻布などの他地域でも住所として使われていない里俗の名称は、内田山、大隅山、薮下、麻布山、鷹石などたくさんありますがこれらは新聞などの用語として頻繁に登場します。
そこで白金地域の字名を調べてみると、上三光、下三光、奥三光、名光、東明名、西名光、松久保、大根原、蜀江台、鷺の森などと並んで「雷神下」がありました。
この雷神下とは近代沿革図集によると
雷神下とは雷神社下の意味で卒古台(蜀江台)へんをさすのである。
とありまた同書の「雷神山」の項には、
雷神社(いかづちじんじゃ)は白金三光町395番地にあり、明治以前は雷電宮と称し神応さん報恩寺においてこれを管せり。
などと記しています。
などと記しています。
この報恩寺は白金氷川神社の境内にあった別当で江戸期には僧が神官も兼務する「社僧」が取り仕切っていたようです。
しかし明治初期に廃仏毀釈の影響からか廃寺となったようです。
しかし明治初期に廃仏毀釈の影響からか廃寺となったようです。
この報恩寺が雷神社の別当も兼務していたことから、現在この雷神社は白金氷川神社に合祀されているようです。
って書きましたが、もしかしたら雷神社は最初から白金氷川神社の末社であった可能性があります。大宮氷川神社なども
末社に雷神社を祀っています。
末社に雷神社を祀っています。
余談ですが、白金氷川神社参道脇の茶屋には江戸名所花暦にも掲載された「床梅」と名付けられた名白梅がありました。
この雷神社付近には雷神横町または雷横町があった事が近代沿革図集には記されています。
この雷神社の社地は1950(昭和25)年に「雷神山児童遊園」として整備され近隣住民や北里病院の入院患者などに親しまれているようです。
因みにわたしも父親が北里病院に入院していた時期には、毎日のように休憩でこの公園を利用させて頂き癒やしを受けました。
この公園に設置されたモニュメント脇の碑には、
応徳年間(1084から~1087)疫病流行の折、これ
を鎮めるため雷神を祀った雷(いかずち)神
社が建てられた。以来この土地は雷神山と呼
ばれ、病気平癒を祈願して多くの人々が参拝
するようになったいう。戦後、氷川神社に
合祀され児童遊園として生まれ変わった現在
雷神山の地名と参道の桜並木にその名残を留
めている。
を鎮めるため雷神を祀った雷(いかずち)神
社が建てられた。以来この土地は雷神山と呼
ばれ、病気平癒を祈願して多くの人々が参拝
するようになったいう。戦後、氷川神社に
合祀され児童遊園として生まれ変わった現在
雷神山の地名と参道の桜並木にその名残を留
めている。
と記されています。
最後にこの雷神社は小祀からか文政町方書上にも、御府内備考続編にも記載がありませんでした。
もしかしたら白金氷川神社の項に記述があったのかと今頃思っています。
※江戸名所図会「氷川明神社」の項に、
雷電宮
同社地より北にあり、相伝ふ、白川院の御字当國疫病疾流す、氷川明神の神託あるによりてここに此御神を勧請すと云ふ、千手観音を本地佛とす
同社地より北にあり、相伝ふ、白川院の御字当國疫病疾流す、氷川明神の神託あるによりてここに此御神を勧請すと云ふ、千手観音を本地佛とす
とあり、合祀される以前の遙か昔から氷川神社と末社という関係であったことが解りました。
また前回お伝えした「狸蕎麦」という里俗の地名も文政町方書上には記述が見つかりませんでした。
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