Rinksでお世話になっている「東京の水」の本田さんから宮村町の小川(本当は下水と呼んだ方が近いが、あえて”おがわ”と言わせて頂く)に付いてのご質問がありました。氏は古川の事を詳細に研究されている方で、その流域の涌水という事でのご質問でした。以下は当時(2000年頃)私がお返事したメ-ルからの抜粋をご紹介します。
”小川”ですが、私は本光寺の横に生まれ住んでい ましたが、地元でもあの小川を名称で呼ぶのを聞いたことがなく 詳細はまったく不明です。
私が小学生の頃(昭和40年代前半)には、 すでに下水化しており、今と同じ状態でした。しかし「十番わがふるさと」 に、この小川の記載があるので抜粋します。
○(11)法久山安全寺とその周辺
「.....家の前の40センチ幅の溝は小川の流れのように清水が四六時中 流れていた。この水はがま池の水や周囲の高台から懇々と涌き出る 水が流れ込むもので、田舎の小川のように美しい風情があった。 今は暗渠になっているが、現在でも一カ所だけ昔をしのぶ所が残っている。 (奥の三叉路石屋の前の下水)......。」
○(12)明見山本光寺とその周辺
「.....大雨でも降ると大変だ。宮村通りの溝は溢れ、道全体が小川のようになる。 子供達は俄か漁師となって古スダレを持ち出し、溝に仕掛けてどじょうや小魚をとる。 ........。」
また、文政年間(1818年~30年)に書かれた「江戸町方書上」(三)麻布編には、
- 一、板橋一ヵ所。渡り長さ三尺、巾三尺。町内中ほどにて内田伊勢守様お屋敷境より横切り下水の上にこれあり候。
- 一、石橋一ヵ所。渡り長さ四尺、巾三尺。町内西の方新道境にこれあり、右二ヶ所とも掛けはじめ年代相分かり申さず候。
この小川の他にも、テレビ朝日通りから十番方面に抜ける玄碩坂の途中「妙経寺」 のあたりのマンホ-ルの上に立ち、耳をそばだてるとゴ-ゴ-とすごい勢いで 水が流れているのが聞こえます。これは、つい最近までこのあたりにあった”池” (私が子供の頃は、
ハラキンと言う釣堀でした。)の涌き水がそのまま下水に流れ 込んでいる音の様です。
また一橋公園の噴水も古くからの涌き水との事。前出「十番わがふるさと」(二)一ノ橋の井戸と言う項に 関東大震災直後位の話として以下が掲載されている。
「小林馬肉店を横へ薪河岸の方へ曲がると高さ1間程の吹き上げ井戸が四六時中清水を吹き上げていた。
表の湯屋が使用しているらしいが、太い竹の樋から滝のように流れているので、隣り近所の人々もこの水を利用していた。
とても旨い水で冬暖かくお湯のようだし、夏は氷水に負けない冷たさだ。水道を引いている家でもこの井戸で用を足していた。特に茶の湯の通人は、わざわざ遠くから汲みに来た。天現寺、金杉橋辺のファンは電車に乗って汲みに来たものだ。」
その他にも
「がま池」「麻布山善福寺、柳の井戸」「ニッカ池」「本村小学校横の釣堀、衆楽園(港区南麻布3-9-6)の池」
「有栖川公園」など水源には事欠かきません。 また麻布十番にも戦前まで大きな溝があり川が流れていました。(がま池、長玄寺水流を合わせた宮村町水流と原金池水流、ニッカ池水流、吉野川水流の合流したもの)川には
網代橋が架かっていました。そして各商店も客のために自前で木製の橋を架けていて、大雨が降るとよく流されたとあります(網代橋の柱石は、十番稲荷入り口に現在も保存されています)。また溝によくお金や財布などの物を落とす人がいたので、専門のさらい屋がいたそうです。
この溝も昭和3年ころに約半年間の工事で暗渠となった。この工期の間商店は開店休業状態に追い込まれたが、保証を要求する者など皆無であったと「十番わがふるさと」には記されています。