寛永十六(1639)年六月二十一日、麻布においてオランダ人による石火矢の試射が行われました。石火矢とは古くは中国から伝来した弓のような発射器に、石・鉄・鉛丸などを発射する武器を呼称する言葉でした。
しかし、天正四(1576)年に大友宗麟が南蛮人から入手した「国崩」などの大型の大砲が石火矢と呼ばれるようになり、弾丸重量1貫目以上を石火矢、1貫目以下を大・中・小の筒として区別され、石火矢はおもに攻城兵器として使用されるようになりました。
この寛永の試射の前年にやっと終結した島原の乱の際も攻城側の幕府軍は、オランダ商館長ニコラス・クーケバッケルに依頼して島原城に 5ポンド砲・12ポンド砲を打ち込んだそうですが、決定的な破壊はできなかったようです。これはその時に使用した砲が旧式の直射砲であったた事と、砲弾は信管のないただの鉄の弾であるためとニコラス・クーケバッケルは幕府に釈明し、ヨーロッパでは最新技術により放物線を描いて信管つきの炸薬弾が飛ぶ「臼砲」が攻城の主力であると説きました。
島原城攻めに手を焼いた苦い経験を持つ幕府はすぐに平戸藩主松浦肥前守を通じてオランダ商館側に「臼砲」への重大な関心を示します。それは当時のアジアではマカオと平戸にしかないオランダの高度な鋳造所でしか作成することができない「臼砲」は最新の兵器であり、その平戸を擁する幕府が欲しがったのは当然のことでした。
オランダ側としても敵国ポルトガルとの間で日本での有利を争っている時期であり、また幸運にも丁度幕府からの「臼砲」鋳造の依頼が来た時期に、滞日20年のフランソワ・カロンが商館長に着任し、さらに優秀な砲術手で、父親に高名な鋳造師をもつハンス・ヴォルフガング・ブラウンが平戸に着任したことから臼砲の鋳造に着手することを決められました。
寛永十六(1639)年二月二十六日、藩主松浦肥前守臨席のもとに平戸で1号臼砲が鋳造され、さらに二日後の28日には2号臼砲が鋳造されました。そして3月の半ばにはオランダ商館近くの海岸で試射が行われました。しかし発射の衝撃で青銅製砲袈と木製砲袈が完全に破壊され、急遽鉄製の頑丈な砲袈に改められます。
こうして出来上がった臼砲は3月24日、江戸に向けて搬送が開始され、臼砲3門・砲袈・弾丸60発を運ぶ人夫300人と商館長フランソワ・カロン以下の商館員は大阪までを海路、その先は陸路東海道を使用して江戸に入ります。
そして、寛永十六(1639)年六月二十一日早朝、麻布村において臼砲の試射が行われました。幕府側の検使として、病床の家光の名代で前老中の堀田加賀守正盛、老中阿部對馬守重次・牧野内匠守信成、目付兼松彌五衛門正直、鉄砲方井上外記正継ら幕府の主だった要人が参加し、オランダ側は4月から江戸に参府していた平戸商館長フランソワ・カロンと商館員たちが参加します。そして当日は噂を聞きつけて多くの野次馬や見物人が江戸中から押し寄せ、弁当持参で傾斜地に陣取ったそうです。
群集、幕閣が見守る中、ハンス・ヴォルフガング・ブラウンともう一人の砲手クリスチアンが進み出て、鉄砲方井上外記に指示された四町(約440メートル)離れた茅葺小屋五棟を標的として、まずブラウンが第一弾を発射しました。しかし、弾は標的の手前の稲田に落下し不成功に狼狽した群集が騒いだが、その時稲田の地中6メートルまで潜り込んだ弾は信管により炸裂し、大きな土煙をあげ人々を驚かせます。
次にクリスチアンが2号砲による第二弾を発射しました。しかし弾は砲身内で爆発してしまい、クリスチアンは顔面に重症を負い他の商館員も残らず負傷し、さらに閣老の幕舎も大損害を受けることとなりました。
しかしこれだけの大損害を出しながらも、幕府側によりその後も試射を続けるよう命令が下され、ブラウンがさらに9発を発射しました。しかし標的に命中させることはできず、すべて空中で炸裂するか、標的の手前に落下し土中で炸裂してしまったそうです。そこで今度は閣老から砲弾を小屋の中に置いて点火させてみよとの指示を受けて商館員が砲弾の信管に点火すると、小屋の屋根は空中に吹き飛び、小屋全体が炎に包まれました。これを見た幕閣たちは大いに喜び満足したそうです。
しかし、それまで幕府の大砲製作を担っていた鉄砲方井上外だけはオランダ人による職権の侵害を恐れて、不機嫌であったといわれています。
この結果はさっそく家光に絵師によって描かれた絵図などをもとに詳しく報告され、標的には届かなかったにもかかわらず、砲弾の威力には家光も満足を示し喜びました。商館一行は後日将軍より賛辞と報奨が送られ、平戸帰任時にブラウンは幕府側から「徒歩での行動より馬か駕籠を使用する身分」を認められたそうです。そしてさらに幕府は引き渡された三門の他に、新たに数門の臼砲鋳造を依頼し、翌年の寛永十七年には臼砲七門と砲弾140発以上が幕府に引き渡されます。
この石火矢(臼砲)試射の場所については「江戸・東京の中のドイツ」の著者は、鉄砲方井上外記正継の屋敷のそばにあった砲術練習場ではないかとしていますが、これは現在の赤坂豊川稲荷付近の牛鳴坂脇との事で、その地を「麻布」と記録に残していることから、十六ヶ村、または三十二ヶ村といわれた当時の麻布村領の広大さが忍ばれます。
試射後幕府に引き渡された三門の臼砲は、臨席した幕府側担当者である鉄砲方井上外記ではなく、もう一人の鉄砲方である田付四郎兵衛影利に管理が命じられました。
そして驚いたことに、その後数世紀を経た1937(昭和12)年、ドイツ・ウルム市立博物館にはこの幕府に引き渡した臼砲のレプリカ(複製)が作成され、太平洋戦争中は日独親和のプロバカンダとして利用されていました。一方麻布で試射された臼砲は戦前までは靖国神社の「遊就館」に保管されていたそうで、さらに1945年(昭和20年)まで現存が確認されていたそうですが、数世紀を生き延びた歴史あるこの臼砲は終戦後にアメリカ占領軍に接収されて以降、現在も行方不明のままであるとされています。
★付記
★付記2
この麻布における臼砲の試射は家光上覧のうえ行われたとしている書物がありますがそれは誤りで、当日家光は体調不良から床に伏していたそうです。 その代わりに家光の名代として前老中、現老中をはじめとする要人が 列席してのデモンストレーションであったようです。
武江年表には寛永16年の項に、
「六月、目黒原にてホウロク火矢打あり」との記述があります。また、麻布区史121Pには「火矢を麻布に試射す」として、~その頃蘭人は西洋の新武器なる石火矢を幕府に献じた。仍て家光は寛永十六年五月廿日之を麻布野に試射せしめたが其の成績は「寛永日記」に「場所四丁先かや家立地夫江打掛候へ共、とどきレ不申候ゆへ焼不レ致阿蘭人少怪我いたし候、玉放十打候得共、家は焼不レ申候」~徳川実記(大猷院殿御実紀)寛永16年6月の項にはもう少し細かく、~廿日蘭人進貢せし石火矢をもて。麻生(麻布)の地にて蘭人にその技を試しめ。堀田加賀守正盛。阿部對馬守重次。牧野内匠頭信成。目付兼松彌五衛門正直監臨せしめらる。四町ばかりへだてたる茅屋へ打ちかくる事。数度なりしかども。とどかざれば茅屋に火もうつらず。かへつて蘭人殷傷せしとぞ。~などとあります。そして、東京史稿市街編第6-田付四郎兵衛影利の項には、この麻布の試射から11年後の1650年(慶安三年)にも江戸郊外の牟礼野(現三鷹市牟礼)で、オランダ人ユリアン・スハーデルらによる臼砲の試射が行われた。との記述があり、この麻布の試射の他に数度の試射が行われていたことが伝わっています。
赤坂牛鳴坂脇の役宅のそば九郎九坂(くろぐざか)脇には鉄砲練習所があったことから、九郎九坂は別名「鉄砲坂」とも呼ばれていたようです。
また、代々鉄砲方を世襲してきた井上左太夫の屋敷はこの赤坂牛鳴坂の他に麻布広尾町北条坂下方の鉄砲坂脇に井上左太夫屋敷、鉄砲方与力同心屋敷、鉄砲方組屋敷があり鉄砲の練習場も付属していたようです。そして、さらに北品川(現在の第三北品川病院あたり)にも「大筒稽古場・井上左太夫持」とありこちらは鉄砲よりも大型の大砲の練習場であったことが記されています。
残念ながらこれらの井上左太夫屋敷、練習場などがのうちどの場所で石火矢の試射が行われたのかを示す史料を見つけることは出来ませんでしたが赤坂か麻布鉄砲坂で行われた可能性が濃厚かと思われます。
赤坂牛鳴坂の井上左太夫屋敷 |
麻布鉄砲坂井上左太夫屋敷・組屋敷・鉄砲練習場 |
北品川井上左太夫持大筒稽古場 |
★関連事項
消えてなくなった男