2013年5月8日水曜日

麻布山善福寺と善福寺池


徳川三代将軍将軍家光と善福寺を調べていると「麻布山善福寺オフィシャルサイト」の中に、

「杉並の善福寺池は当時の奥の院跡で当時の寺領の広さがわかります。」

麻布山善福寺
との記事がありまた。そこで早速、善福寺池を調べてみると、池は現在、杉並区善福寺3丁目にある都立善福寺公園となっており、面積7万8千平米公園敷地の中で上の池、下の池と分かれ、両方で37,000㎡で公園全体の47%を占める池である事がわかりました。

善福寺池は井の頭公園の井の頭池、石神井公園の三宝寺池と供に武蔵野三大湧水地といわれたほど湧水量が豊富で、江戸時代、神田上水の補助水源として利用されたそうです。

その湧水の一つである遅乃井は1185年、源頼朝が奥州征伐の途上でこの地に宿陣した時に、干ばつのため自らが水を求め、弓筈で土を掘ること七度、「今や遅し」と水の出を待ったことから「遅乃井」と呼ばれるようになったと伝わっています。また池からは「善福寺川」が流れ出し、杉並区の中央を通って中野富士見町辺りで神田川と合流し、やがて隅田川へとそそいでいます。

善福寺池の名称は、昔、この付近にあった寺の名からとったと伝えられますが、現在杉並区善福寺3丁目にある善福寺はそれまで「無量山福寿庵」と呼ばれた庵を昭和17年に寺に昇格した時に改称した寺名であり、麻布山善福寺との関係は無いそうです。

しかし、杉並区史によると「新偏武蔵風土記稿」には、池に面した丘の上に江戸初期まで善福寺という寺がありましたが大地震によって破壊され、寺の宗旨も伝えてませんが、時宗であったと土地の古老は伝えたと書かれています。そこで杉並区郷土博物館に電話で話を伺いましたが、残念ながら麻布山と杉並の善福寺を結びつける手がかりは見つける事が出来ませんでした。

そこで麻布山善福寺に電話で確認すると、800年前ほど前のことなのでよく解らないが、寺にはそのように伝わっているとの事でした。今回はその証となる文献等を発見する事は出来ませんでしたが、杉並の善福寺池が麻布山善福寺の寺領であった事は確証がないものの、私には間違いないように思われます。

なお、麻布山善福寺はこの杉並のほかにも、江戸期の元禄12年(1699年)にそれまでの麻布の寺領が新堀御用地となったので、荏原郡六郷領女塚村(現在の大田区西蒲田あたり)に替地となった寺領があったと「麻布区史」にあります。

そしてさらに、同寺オフィシャルサイトでは、江戸城虎ノ門を、元は麻布山善福寺の山門と記しており、改めて当時の寺の権勢がしのばれます。













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