猿助の塚 |
当時南麻布一丁目あたりを2時間以上かけて探し、韓国大使館警備のお巡りさんをはじめ、10人以上の地元と思われる方々にも「猿助の塚」聞いて廻りましたが結局見つける事が出来ませんでした。そこで一旦お茶を飲みながら作戦を建て直し、港区郷土資料館に電話でレファレンスをお願いしてみました。
レファレンスを受け付けて下さった方はとても親切で、探して折り返し携帯に電話を頂けるとの事で1時間ほどで連絡がありました。しかし、残念ながら資料がまったく無くてわからないとの事でしたのでしぶしぶ諦めて帰宅しました。
まぁ、この手の里俗の伝承はその継承範囲が非常に狭く、新しく住民になられた方などには伝わっていないことも多いので仕方がないと思っていたのですが、実は麻布で猿が逃げ回っていた「麻布猿騒動」当時、テレビニュースの関連事項としてこの「猿助の塚」が取り上げられ、簡単に伝承を紹介していたことがあり、今回はわからなくてもどこかに必ず塚は残されていると確信していました。
探索に失敗し、家に着いても塚が気になって本をめくっていると、たまたま塚の近所であろう仙台藩邸でおきた話が出ていました。その内容は、
江戸の頃、仙台坂の中ほどにあった常鎖門(開かずの門)の内側の崖に大きな椎の樹があった。ある夜風も無いのにみしみしとすごい地響きがして樹は他の木も倒しながら根元から抜けてしまった。そしてその跡には底も知れぬ大きな穴があいていた。これを聞いた近隣のものたちは、龍が天に昇ったとか、天狗の仕業かと噂したという。
塚近景
この本を見て天狗、龍がいるのなら猿もありと、DEEP AZABU掲示板で応援を依頼すると2日ほどで正確な場所と情報を詳しく知っている方を紹介して頂けるという内容の親切なメールを頂戴きました。(このメールが無かったらいまだに場所がわからなかったと思います。)
そこで再び南麻布を訪れ、紹介して頂いた竹谷町に古くからお住まいのHさんの家を訪ねると、掲示板で教示頂いた方から私の希望をお聞きになっていて家の中に招いていただき、親切にお話下されました。
その内容は、Hさんの祖父が明治時代の話として語ったのは、
この場所は終戦までは高尾稲荷というお稲荷さんがあり、その境内に塚があった。その塚は、明治時代このあたりに悪さをする大猿がいて皆困り果てていた。そしてある人が、その大猿を捕まえて打ち殺してしまった。その猿を埋めた上に塚を置いて、慰霊をした。
そして終戦後、高尾稲荷は進駐軍の指令で麻布氷川神社の境内に移され竹谷町の元地は民間に払い下げられますが、猿の祟りを恐れた人々は塚をそのまま残して供養した。
氷川神社の末社 高尾稲荷 |
Hさんはその他にも、昔の古川の様子、東町小学校、仙台山の分譲、空襲後の十番などの話を聞かせていただき、大変に貴重な情報を頂きました。最後にHさんが「竹谷町はまだ自前で町内神輿がかつげるんですよ」と嬉しそうに語った笑顔がとても印象的でした。Hさんchacaさん本当にありがとうございました。
さらに後年近隣の方にお話を伺うと、
異説その1
明治頃お屋敷の飼猿が逃げ出し、悪さをしたためこのあたりで猟銃で射殺し慰霊のため塚をこしらえた。異説その2
高尾稲荷は進駐軍の指令ではなく、持ち主が代替わりの際に氷川さまに移転させてもらった。
昭和の5~6年頃、町内で悪さをする猿が出没した。あまりにいたずらが過ぎるので警察に頼んで射殺してもらった。どこで飼われていたかなどは不明。その後町民があわれんで墓を建てた。「その2」はいつもお世話になっている仙華氏が土地の古老に伺った話をDEEP AZABUに教えていただきました。仙華さんご協力ありがとうございました。
お稲荷さんを氷川神社に移設する際、墓も一緒にとの話も出たがたたりを恐れてそのままになっている。
大正11(1922)年ころの麻布竹谷町辺 |
※ この猿助の塚は公共の場所ではなく個人の敷地内にあります。
勝手に敷地内に侵入すると「無断侵入」となる恐れがありますので、
敷地の持ち主に了解を得てお参りをされることをお願い致します。
◆関連項目
・麻布サル騒動
・高尾稲荷神社
・笑花園と仙華園