2013年5月14日火曜日

大蔵庄衛門の稲荷再建

仙台藩 麻布藩邸
天保八(1837)年の9月初め頃、麻布仙台坂にある伊達藩邸の長屋に大蔵庄衛門という能役者が住んでいたそうです。

ある晩、老翁が大蔵庄衛門の夢枕に立ち、
「私は稲荷の霊である。近年の出火にて祠が焼失し難儀している。そちの尽力で祠を寄進せよ!」

といいました。庄衛門は夢ながらも、

「自分は長屋住まいの身であり祠の建立など、とんでもありません。」

と答えました。すると老翁は、

「それはわかっておる!そちは力を貸せば良いのじゃ。寄進する気があれば出来るものじゃ!」

といい、場所は汐見坂(永坂脇の潮見坂か?)上原であるといい残し消えてしまったそうです。
ここで夢から覚めた庄衛門は、不思議な事もあるものと思いながらも、翌日使用人を汐見坂に行かせることとします。使用人が潮見坂に行ってみると、坂上に俗称「焼け跡」といわれる場所があり、確かに昔「原」と呼ばれていたとの事でした。

報告を受けた早速庄衛門も自身で出かけ、付近の者に話を聞くと、

「火事で焼け跡になる前に確かにここに稲荷があり、その後、焼け跡に小さな祠を建てて祭ったが、子供が遊んでいてひっくり返すなどするために、榎にくくり付けていた。しかし、その祠も最近の大嵐で跡形も無く飛ばされてしまった。」

とわれました。
ここの地主は下町の大家であると聞き、早速その大家を訪ました。そして、霊夢の事を話し土地を借用したいと切り出すと、何とその大家も老翁の霊夢で庄衛門の来訪を待ちわびていたといいます。さらに、あの土地は少しの借金のかたに取った物であるから、未練も無く、空き地総てを寄進しようと言い出します。 
これには庄衛門も驚き、貸してくれるだけで良いと押し問答となったが、とうとう地主に根負けして沽券、証文残らず庄衛門の物となったそうです。この土地に庄衛門が普請し、めでたく稲荷は戻ったのですが、この稲荷が在った場所を示すものは残されておらず、稲荷が流行ったと言う話しも残されていません。
最後に、この本の著者は全く不思議な話しであると結んでいます。


汐見(潮見)坂は現六本木五丁目12番あたりで東洋英和女学院の裏手にありますがその他、三田聖坂脇の潮見坂、そして虎ノ門二丁目にも汐見坂があり、どの坂を指しているのかは判断することができませんでした。


★関連項目

高尾稲荷

笑花園と仙華園









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