今日まで納涼フェスティバルが行われている「魚らん商店街」あたりは江戸期には麻布領だったことはあまり知られていません。
麻布永松町
このあたりは武蔵国豊島郡と荏原郡の境界であったため時代によりその所属は変遷していましたが、江戸期には麻布永松町が起立し、麻布の領域に編入されていました。
◆文政町方書上(麻布永松町)
~当町の儀は、往古より麻布領麻布村御領所のうちにて、村地にこれあり候砌、当町内北の方に古来松大木これあり、永松町と相唱え候由申し伝え、もっとも、右松いつ頃枯れ候や年代相知れ申さず、右場所も当時家作地に相成り申し候。~
◆近代沿革図集(麻布永松町)
昔から麻布領麻布村のうちであった。村地の北に松の大木があったので麻布永松町と唱えた。宝永六(1709)年十二月十九日に屋敷改めがあって家作を許された。元禄十三(1700)年三月、麻布南日ヶ窪町、麻布北日ヶ窪町の地面4か所が、道路用地となり、代地を当町と入り合いの場所に下された。代地ではあるが麻布永松町と唱えている。正徳三(1713)年五月一六日から町奉行支配となり、町奉行・代官の両支配である。~略~東京市史稿によれば明治3(1870)年6月、山の手武家地の衰疲がひどいため繁華地近くに移転したいとの願いが、三田古川町から出ている。東京府志料には、神田美土里町旧来役屋敷であったが、明治以降鹿児島藩邸となり、また三田古川町、麻布永松町、麻布今井町、鮫橋北町、神田竹町の代地となって新三河町と称し、さらに明治5(1872)年、美土里町と改称したとある。麻布永松町の住民は明治3年中に新三河町に移転し、魚籃坂下の通りの両側にあった町域のうち東側は三田松永町に、西側は白金志田町に明治5年、合併されたと思われる。
同様に四の橋商店街「(白金商店街)がある田島町も麻布田島町として起立し、こちらは住居表示が実施され白金1、
3、5丁目となる昭和44(1969)年まで麻布域に所属していました。よって、現在も四の橋商店街入り口にある「田島町会館」の田島町は「白金田島町」ではなく「麻布田島町」でした。
麻布田島町
また、古川の流域は明治になると青山八郎右衛門により開拓され、当所は「八郎右衛門新田」と呼ばれた農地でしたが、次第に宅地化されて分譲し古川の両岸ともに「麻布新広尾町」として起立することとなります。
同様に赤坂と隣接した檜町域(現在の東京ミッドタウン)も麻布になったり、赤坂になったり、また「中の橋」にある森元町も芝森元町になったり麻布森元町になったり、その隣の新門前町も麻布と芝を時代により冠していました。
さらに「小言幸兵衛」という落語で有名な古川町(現在の東町小学校辺)は本来は麻布域である古川の西側に「麻布古川町」、「麻布龍土代地古川町」、「三田古川町」が隣接していますが、「麻布古川町」と「麻布龍土代地古川町」の町域は家作2~3軒ほどの狭い町域で両方合わせても古川町全体の25%ほどにしかならず、残りの50%は「三田古川町」の町域が占めていました。これはもしかしたら開削工事で古川の流路がかわった事により、本来古川の東側(三田域)であった土地が、西側になってしまったためとも考えられます。いづれにせよ隣接区域に麻布が飛び出した永松町や田島町とは反対に、隣接域が麻布に入り込んでいる事例です。
古川町 |
また本来全く関係ない場所に麻布域が忽然と表れる「宮村町代地」のような地域もあります。この「宮村町代地」は暗闇坂と狸坂を挟んだ地域にあった麻布氷川神社社地が幕命により増上寺隠居所となった際に同地に居住していた住民も移転を余儀なくされ、広尾祥雲寺南側に代地を指定されます。そしてその場所は「宮村町代地」とよばれ本来の麻布領からは少し離れた場所の「麻布領」となりました。そしてこの地域の住民の中には地域本来の広尾稲荷神社氏子、渋谷氷川神社氏子に混ざって、現在も麻布氷川神社の氏子さんがいるようです。
広尾祥雲寺脇の宮村町代地
◆国立国会図書館デジタル化資料 - 麻布永松町絵図
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542105
◆麻布七不思議-狐しるこ
http://deepazabu.blogspot.jp/2013/05/blog-post_6.html
◆小言幸兵衛の古川町
http://deepazabu.blogspot.jp/2012/10/blog-post_14.html
◆麻布氷川神社
http://deepazabu.blogspot.jp/2012/12/blog-post_2.html
◆麻布七不思議-六本木
http://deepazabu.blogspot.jp/2013/04/blog-post_27.html