今回はこの兎園小説拾遺から「麻布大番町奇談」をお届けします。
大岡雲峯屋敷 |
文政十一年の三月中ごろ、大岡雲峯(画家・旗本)の屋敷に永く勤める老女がいました。その老女は名を「やち」といい、年齢は七十歳あまりですが誰も名を呼ぶ者はなく、ただ「婆々」と呼んでいました。婆々は親族も皆絶えて、引き取り養う者もなかったので、主人も哀れみずっと家にいることを許しました。
そして三月中ごろに、婆々は何の病気もないのに気絶し、呼吸も止まってしまいます。
そして...一時(2時間)ほどで息を吹き返しますが、その後体が不自由となります。しかし、食欲だけは増大し以前の十倍も食べるようになります。三度の食事以外にも食べていない時が無いほどで、死に近い年齢の婆々がここまで健啖(食欲旺盛、大食い)なのを怪しいと思わないものはいませんでした。
婆々は手足こそ不自由ですが、毎夜面白げな歌を唄い、そして友達が来たといっては大声で独り言などをいいました。あるいはまた、はやしたて、拍子をとる音なども聞こえる事もありました。あるいは、深酒で酔った後のように熟睡し、日が登るまで起きないこともありました。
このような状況に家の主人(大岡雲峯)も不審がり松本良輔という医者に診てもらうと、すでに脈がなかったそうです。少しあるのですが、脈ではないとの診察で、医者も「奇妙な病です。」と不思議がり、薬もも出しようがなく、老衰からの所行で脈が通じておらず、
「養生する以外に方法がなく時々様子を見に往診に来ます。」
と言うしかありませんでした。
そして月日が流れると、婆々の姿は肉がそげ落ちて、後には骨が露出して穴が開き、その穴の中から毛の生えたモノが見えるということで、介護の者が驚いて騒ぎだす事になりました。
文政十二(1829)年の春を迎える頃には、まだ婆々に息があるので湯あみをさせ、敷物を毎日交換するなど看病させると、婆々は喜んで感謝を繰りかえしました。
また、滋養の高い食事の世話をするため、主人は少女の介護人を婆々につけてやりました。
やがて再び冬になり婆々の着物を脱がせてみると、着物に狸のような毛が多数付いていることに気がつき、その臭気は鼻を覆わなければいられないほどで、人々はさらに怪しみます。
その後、狸が婆々の枕元を徘徊し、婆々の布団から尻尾を出すこともありました。このようなことが続いたので介護の少女はいたく恐れていましたが、主人の説得により次第に慣れて怖がらなくなってゆきました。そして毎夜婆々が唄う歌を聞き覚え、
「今夜は何を唄うのかしら?」
っと、笑顔で婆々の唄を待つようになります。
そして後には、婆々の寝ている部屋には多くの狸が集まり、鼓・笛太鼓・三味線などで囃子たてる音が聞こえ、婆々が声高に唄う声も聞こえてきました。また囃子に合わせて踊る足音が聞こえることもありました。
そしてある朝、婆々の枕元に柿が多く積み上げられていることもあり、その訳を婆々に尋ねると、
「これは昨夜の客が、私を大事にしてくれるお礼にこの家に持ってきたものなので、どうぞ召し上がって下さい。」
といわれます。しかし皆は怪しんで、誰も食べようとしませんでしたが、中を割ってみると普通の柿のようだったので、介護の少女にすべて与えました。
またある日には、切り餅がたくさん婆々の枕元に置いてあることもあり、これも狸からの贈り物に違いなく、獣(けもの)でも主人の情にに感謝しているに違いないと人々は噂しました。
ある夕べには火の玉が「手まり」のように婆々の枕元を跳びまわり、介護の少女が恐れながら見たところ、赤い光を発するまりで、手に取ることは出来ずにたちまち消え失せたということでした。翌朝婆々にそれを問うてみると、
「昨夜は女の客があり、まりをついた」
といいました。
別の夜には火の玉がはねるように上下していたので、婆々に問うと、羽根突きをしたとのことでした。またある日、歌を詠んだからと、紙筆を所望して書きつけました。
朝顔の 朝は色よく 咲きぬれど
夕べは尽くる ものとこそしれ
婆々は読み書きが出来ませんし、唄など詠むような人ではないので、これも狸の仕業にちがいないと噂しました。さらに別の日、絵を描いてかいごの少女に与えたのを見てみると、蝙蝠に旭日を描いて、賛が添えられていました。
日にも身を
ひそめつつしむ 蝙蝠(かわほり)の
よをつつがなく とびかよふなり
これもまた、いままで婆々は絵を描くことはなかったので、古狸の仕業に違いないと人々は言い合いました。
このように怪異を起こす婆々はさらにますますの大食いをして、毎食、飯を八九碗、その間には芳野団子五六本、その後まもなく金つば焼餅二三十個など、本当に日々大食いでしたが、それにより病気になる気配はまるでありませんでした。
ある晩、婆々の寝間で光明が照り輝き、紫の雲が起こります。三尊の阿弥陀仏が現れて、婆々の手を引きながら行くと見え、介護の小女は驚き怖れ、慌てて主人のところへかけます。
しかし、主人の雲峯と妻が駆けつけて見れば、婆々は熟睡しており、ほかに何者の姿もありませんでした。そして、文政十二年十一月二日の朝、雲峯の妻は夫に告げます。
「昨夜、年老いた狸が婆々の寝間から出て、座敷をあちこち歩き回り、戸の隙間から外へ出て行きました」
そこで婆々のところへ行ってみると、すでに婆々は息が絶えていました。これは、頓死した婆々の遺骸に、老狸がずっと憑いていたのでしょう。これは雲峯自身が話したのを、そのまま書き記したものです。
....ここでこの話は終わりますが、このあとに後記のような文が続いているので、こちらは原文のまま、お伝え致します。
原文この下に、彼小女(介護の少女)の夢に古狸の見えて、金牌を与へし抔(杯)いふことあれど、そはうけられぬ事なれば、ここには省きたり。ここにしるすごとくにはあらねど、此狸の怪ありし事は、そら事ならずとある人いひけり。原文のくだくだしきを謄写の折、筆に任して文を易たる所あり。さればその事は一つももらさで、元のままにものせしなり。奇を好む者に為には、是も話柄の一つなるべし。
庚寅秋九月燈下借謄了。
※[庚寅とは文政13(1830)年の事]
◆追記
大番組屋敷が集っていた表大番町・裏大番町をあわせた「四谷大番町」が制定されます。
さらに、明治11(1878)年には千駄ヶ谷大番町を四谷区に編入し、同24年(1891年)四谷大番町に吸収され、そして昭和18(1943)年、四谷大番町と四谷右京町を併せ、一文字づつとって「大京町」が成立することになります。
この「兎園小説」を編集した滝沢馬琴は広義においてこの大番町を麻布と捉えていたのかもしれませんが、一方では兎園会で発表の際に、その発言者が地名を間違えていたのかもしれません。いづれにせよ、この兎園小説が書かれた文政期に、この地域が麻布であったという確証はとれませんでした。
★関連項目
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