この写真は「永坂孤女院1908(M41)階下は日曜学校」というタイトルがつけられており、撮影場所
永坂孤女院1908(M41) 階下は日曜学校 (東洋英和女学院提供) |
その女性とはこの写真が撮られる18年前の1890(明治23)年4月4日の晩に、東洋英和女学校で夫を強盗に殺害された校長Mrs.Largeではないかというもの(DEEP AZABUむかし、むかしラージ殺人事件)。
Mrs.Largeは事件後恩賜休暇を取得し一旦カナダに帰国したが、その後二度にわたって再来日し東洋英和女学校や矯風会などで活動していたという。
校長在任当時は、同窓会設立に尽力し、また後に孤児院を作ることとなる矯風会・王女会などでも活躍し、孤児の自活のための靴磨き労働や東洋英和女学校内の売店で文房具販売などの自活策を実施した。
残念ながらこの写真が写された1908(明治41)年にMrs.Largeが来日していたという記録は残されていないので、勝手な思い込みであるが、私にはこの女性がMrs.Largeに見えなくもない。
またこの写真が何かの記念写真だとすると、ちょうどこの年に完成した麻布教会日曜学校とその2階にあった永坂孤女院の創立を記念しての写真だと思われる。そして、江原素六記念館によると、64歳の江原素六はこの年に麻布メソジスト教会日曜学校の校長に就任しているという。
そこでこの写真に校長の江原素六が写っているのではないかと、沼津市明治史料館(江原素六記念館)と麻布高校に問い合わせてみた。
そして、帰ってきた返信にはどちらも江原素六の姿は確認できないというものであった。
しかし、私の勝手な眼には1階中央部分最後列に立つ彫りの深い外国人のような男性が、江原素六そのものに見えて仕方がない。
Mrs.Large (東洋英和女学院提供) |
きみちゃんは1902(明治35)年うまれなのでこの写真撮影時には6歳。そしてその3年後の9歳の時にこ永坂孤女院で永眠することとなる。
しかし、残念ながら岩崎きみちゃんの画像は他に存在しないので、この画像の中からきみちゃん特定することは不可能である。
1枚の写真に写る(と勝手に思い込んでいる)Mrs.Large、江原素六、岩崎きみちゃん。..........すべては歴史の中に埋もれてしまっている。
追記20140303:
東洋英和女学院発行の「カナダ婦人宣教師物語」によると、Mrs.Largeの事件後の様子が記されている。
それによると、Mrs.Largeは事件直後に恩賜休暇を取得して帰国するが、数度の再来日をすることとなる。しかし1897(明治30)年から1901(明治34)年までの来日を最後に1933(昭和8)年に米国ペンシルバニアで逝去するまで来日記録は残されていないので、残念ながらこの写真に写ることは不可能であったと思われるが可能性はゼロではない。
別件ではあるが、左上の「Mrs.Large」と題された写真は事件以降に写されたものであると思われ、不自然に隠された右手は、事件により切断されてしまった2本の指を写真に写すのを躊躇うためとされている。
そして、一方ではこの写真に写り込んでいる可能性がある人物がもう一人いることがわかった。
江原素六 |
また、ドラマ中での花子が奉仕活動をする孤児院の建物のありようがそのままで、二階家の日本家屋で二階が孤児院、一階は日曜学校という設定かと思われる。
そして、ドラマで二階の窓にかかっている「The Sakura-no-Oka Home」という看板は、実際の永坂孤女院写真には、「CARMAN HALL」と映し出されている。
この「CARMAN HALL」というネーミングについて、先日訪問した東洋英和女学院史料室では、
「当時欧米のホールなどの多くは寄付によって建造されていた。そして多額の寄付者が居る場合にはその寄付者の氏名を建物名称にすることが一般的であった。よって、CARMAN という人物の寄付による銘々の可能性が高い」
とのこと。
「不確かな情報ではあるが、この永坂孤女院の建物は東洋英和女学校や麻布教会が建てたものではなく、孤児院として使用していたものを居抜きで東洋英和が譲り受けた。その元の所有者は、坂上にあった香蘭女学校であったと噂では聞いている。」として、孤女院となる施設が既存のものであった可能性を示唆している。
名 前 | 誕 生 | 撮影時年齢 | 備 考 |
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江原素六 | 1842(天保十三)年 | 66歳 | 日曜学校校長 |
Mrs.ラージ | 1855(安政二)年 | 55歳 | 帰国中? |
安中はな(村岡花子) | 1893(明治26)年 | 15歳 | 孤児院奉仕必須 |
岩崎(佐野)きみ | 1902(明治35)年 | 6歳 | 永坂孤女院在籍 |
1912(明治45)年に作られた地籍台帳と地籍図にはこの「永坂孤女院」と思われる建物が記載されている。それによると、
・所在地 : 麻布区長坂町五〇番地
・所有者 : 在日カナダメソジスト宣教師社団
・坪数 : 36.51坪
・地価 :492.88円
となっており、写真の通りさほど大きな施設ではなかったと思われる。そして、やはりその施設があった場所は現在の十番稲荷神社と大江戸線出入り口あたりであると思われる。
1912(明治45)年 地籍台帳 |
1912(明治45)年地籍地図 |
西 暦 | 年 号 | |
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1883年 | 明治16年 | 築地居留地のカナダ・メソジスト・ミッションにより東鳥居坂町に麻布教会(現在の鳥居坂教会)」が設立される。 |
1884年 | 明治17年 | カナダ・メソジスト・ミッションが同派「麻布教会(現在の鳥居坂教会)」牧師を設立者として東洋英和学校会社を設立。 10月東鳥居坂町14番地400坪弱のビール工場跡地に東洋英和女学校創立。創立時の生徒数は2名。次年度は170名。 11月東鳥居坂町13番地、元駐仏公使鮫島尚信邸跡地2,200坪に東洋英和学校(男子)が創立。普通科・神学科を併設。 |
1885年 | 明治18年 | Ms.スペンサーが来日。東洋英和女学校の教師(家事・英語・唱歌担当)を経て同校の第二代校長に就任。 |
1886年 | 明治19年 | 一致英和学校、英和予備校、東京一致神学校の3校が合併して「明治学院」が開校する。 青山練兵場設置 |
1887年 | 明治20年 | Ms.スペンサーが東洋英和学校教師のT.A.ラージ氏と結婚。娘ケートが生まれる。 4月井上馨邸(現・国際文化会館)に天皇が行幸して天覧歌舞伎 麻布本村町津田 仙(津田梅子の父)邸の仮校舎で普連土女学校が開校 高輪の伊藤博文邸で憲法の草案を討議 |
1888年 | 明治21年 | 麻布区永坂町1番地の島津忠亮子爵邸の一部を借り受けて香蘭女学校が創立。 東京天文台が麻布飯倉町に設立される。 |
1889年 | 明治22年 | 芝西応寺に樋口一葉が寄宿。2月大日本帝国憲法発布祝賀のため東洋英和女学校生徒が井上馨邸(現・国際文化会館)を訪問 5月明治天皇が麻布新竜土町の通称:麻布三連隊(陸軍第一師団第三連隊)を閲兵 7月シーボルトの娘楠本イネが長崎から麻布我善坊町25番地に転居(62歳) 江原素六が沼津から上京し東洋英和学校(男子)の幹事となる。 |
1890年 | 明治23年 | 4月東洋英和女学校で強盗事件(ラージ殺人事件)。第二代校長の夫T.A.ラージ氏が殺害され、婦人の校長Mrs.ラージも指を2本失う重傷。事件後恩賜休暇によりカナダに帰国して休養、義指作成。 7月第一回衆議院議員選挙 江原素六が衆議院議員となり東洋英和学校幹事を辞任する。 |
1891年 | 明治24年 | 2月明治天皇が麻布市兵衛町の内大臣三条実美を見舞うために行幸 4月明治天皇が麻布狸穴町の伯爵、川村純義邸(ジョサイア・コンドル設計、現在の東京アメリカンクラブ敷地)に行幸 5月楠本いねが麻布区麻布仲ノ町6番地に転居(64歳) Mrs.ラージが再来日し東洋英和女学校英語教師となる。 |
1892年 | 明治25年 | 5月楠本いねが麻布区麻布仲ノ町11番地に転居(65歳) このころ 森元三座が盛況する。 |
1893年 | 明治26年 | 6月山梨県甲府市の安中逸平・てつ夫妻の長女として「安中はな(後の村岡花子)」が生まれる。(0歳) 6月江原素六が東洋英和学校の校長となり校舎内に居住。 |
1894年 | 明治27年 | 麻布十番に住む貧しい三人の子のうち一人が売られようとしているのを知った東洋英和女学校の生徒が、有志をつのり、その子と他の一人を引取り麻布教会(現・鳥居坂教会)が孤児院を設置。 |
1895年 | 明治28年 | 5月楠本いねが麻布区麻布飯倉片町32番地に転居(68歳) 安中はな(村岡花子)が2歳で幼児洗礼を受けクリスチャンとなる。 Mrs.ラージがカナダに帰国。 南山小学校が暗闇坂下から現六本木高校の地に移転、後年藤棚校舎と呼ばれる。 新橋~八ッ山間に馬車鉄道開通 |
1896年 | 明治29年 | 芝給水場完成 |
1897年 | 明治30年 | Mrs.ラージが三度目の来日。 |
1898年 | 明治31年 | 安中はな(村岡花子)の家族(夫婦と子供8人)が一家で上京し南品川に居住する。(5歳) |
1899年 | 明治32年 | 4月安中はな(村岡花子)が城南尋常小学校(現在の品川区立城南小学校)に入学する。(6歳) 4月Mrs.ラージが強盗事件により死亡した夫T.A.ラージ氏墓所敷地の一部をフルベッキ氏墓地としてエンマ・バーベックに委譲。 7月居留地制度が撤廃される。 |
1900年 | 明治33年 | 東洋英和女学校が創立地である東鳥居坂町14番地から現在地(東鳥居坂町8番地:1,225坪)へ移転。 東鳥居坂町13番地の麻布中学が東洋英和学校(男子)から分離独立し、麻布本村町40番地(現在地)に移転。後に東洋英和学校は廃校となる。 志賀直哉が父と共に麻布三河台町に転居。 |
1901年 | 明治34年 | Mrs.ラージが帰国し晩年は農場経営に従事する。 7月川村純義狸穴町邸(コンドル設計、現在は東京アメリカンクラブ)で迪宮殿下(後の昭和天皇)の養育が始まる。 府立第3高等女学校(現都立駒場高校)が現六本木中学の地で創立。 |
1902年 | 明治35年 | 1月日英同盟調印発効 7月静岡県の不二見村で岩崎きみちゃん誕生 12月ラージ殺人事件解決 本村小学校が創立 |
1903年 | 明治36年 | 3月久邇宮家の鳥居坂邸で女児が誕生。良子と名づけられたその姫は後に昭和天皇の后(香淳皇后)となる。 安中はな(村岡花子)が城南尋常小学校から東洋英和女学校に編入学(10歳) 8月楠本イネが麻布区飯倉片町28番(東洋英和女学校裏手)にて逝去。享年76歳 新橋~八ッ山間に電車開通 三田の慶応グランドで第1回早慶戦野球。 |
1904年 | 明治37年 | 麻布教会(現・鳥居坂教会)孤児院が麻布一本松町から麻布本村町に移転。 2月日露戦争が勃発。 川村純義狸穴町邸で養育されていた迪宮殿下(後の昭和天皇)が川村の逝去により皇居に戻る。 ジョサイア・コンドルが麻布三河台町に自邸を建設する。 |
1905年 | 明治38年 | 日露戦争が米国仲裁によるポーツマス条約により講和 麻布日ヶ窪の曹洞宗大学林専門本校(後の駒沢大学)が曹洞宗大学と改称する。 古川の埋め立てが始まる。 芝丸山で古墳群が発見される。 |
1906年 | 明治39年 | 3月市電7系統広尾線(天現寺-青山1丁目)が開通 |
1907年 | 明治40年 | 笄小学校が創立 |
1908年 | 明治41年 | 麻布教会(現・鳥居坂教会)孤児院が麻布本村町から麻布永坂町50番地(現在の十番稲荷神社社地)に移転し「永坂孤女院」となる。そして集合写真「永坂孤女院1908(M41)階下は日曜学校」が撮影される 三菱財閥2代目岩崎弥之助の邸宅としてジョサ・イアコンドル設計の高輪開東閣が建設される。 11月市電古川線 (4・5・7・8・34系統) 天現寺橋 - 四ノ橋間が開業 12月市電古川線 (4・5・7・8・34系統) 四ノ橋 - 一ノ橋間が開業 白金で聖心女学院開校 |
1909年 | 明治42年 | 6月市電古川線 (4・5・7・8・34系統)一ノ橋 - 赤羽橋間開業 |
1911年 | 明治44年 | 8月市電六本木線御成門 - 麻布台町(六本木?)間開業 9月岩崎きみちゃんが結核により永坂孤女院で死亡。享年9歳 12月市電古川線 (4・5・7・8・34系統) 赤羽橋 - 芝園橋間が開業 |
1912年 | 明治45年 | 6月市電六本木線 (3・8・33系統) 青山一丁目 - 六本木間開業 市電札の辻線(3・8系統) 飯倉一丁目 - 赤羽橋 - 札ノ辻が開業 |
1913年 | 大正 2年 | 安中はな(村岡花子)が東洋英和女学校高等科を卒業。英語教師として山梨英和女学校に赴任。(20歳) 三田綱町の三井倶楽部が三井財閥の賓客接待用として建設される。(設計はジョサイア・コンドル) 曹洞宗大学(後の駒沢大学)が麻布日ヶ窪(現六本木ヒルズ)がら荏原郡駒沢村(世田谷区駒沢)の現在地に移転。 4月市電恵比寿線 (豊沢線、天現寺線とも) 天現寺橋 - 恵比寿(伊達跡)間開業 9月市電目黒線 (4・5系統)(古川橋) - 白金志田町 - 白金郡市境界(白金火薬庫前(上大崎))間開業 9月市電伊皿子線 (4・5・7系統) 古川橋 - 白金志田町(魚籃坂下)間開業 11月東町小学校が開校 |
1914年 | 大正 3年 | ヴォーリズ(William Merrell Vories)設計による明治学院チャペルが建設される。 2月市電目黒線 (4・5系統) 白金郡市境界(元白金火薬庫前) - 目黒駅前間開業 3月市電古川線 (4・5・7・8・34系統)芝園橋 - 金杉橋間開業 9月市電霞町線 (6系統)(麻布三河台) - 六本木 - 青山六丁目(南青山五丁目)間開業 北原白秋が十番に転居 |
1915年 | 大正 4年 | 5月市電六本木線 (3・8・33系統) 宇田川町(浜松町一丁目) - 御成門間開業 |
1917年 | 大正 6年 | 大倉集古館設立 田町の柳沢邸で坂田三吉、関根金次郎が対局。 |
1918年 | 大正 7年 | 元初代ハワイ総領事の安藤太郎が麻布区西町に安藤記念教会を設立 板垣退助の妻板垣絹子が広尾に順心女学校を創立 |
1919年 | 大正 8年 | 9月市電伊皿子線 (4・5・7系統) 白金志田町(魚籃坂下) - 車町(泉岳寺前)間開業 麻布十番に末広座が開業 |
1920年 | 大正 9年 | 永井荷風が麻布市兵衛町に偏奇館を建てる。 |
1921年 | 大正10年 | 松方正義の子、正熊の自邸としてヴォーリズ設計による松方ハウス(現西町インターナショナルスクール)が建設される。 6月市電天現寺橋線 (8・34系統系統) 渋谷 - 渋谷橋間開業 |
1923年 | 大正12年 | ヴォーリズ設計によりフレンズセンター(キリスト友会日本年会)が建設 9月関東大震災 震災直後エノケンが十番商店街で炊き出し |
1924年 | 大正13年 | 5月市電天現寺橋線 (8・34系統系統)渋谷橋 - 天現寺橋間開業 |
1925年 | 大正14年 | 6月市電霞町線 (6系統) 溜池 - 六本木間開業 |
1933年 | 昭和 8年 | Mrs.ラージがアメリカ・ペンシルバニア州にて逝去。 東洋英和女学校校舎がヴォーリス設計により建設される。 麻布区役所新庁舎が完成。旧庁舎はヴォーリス監修により移築され日本獣医畜産大学(現・日本獣医生命科学大学:三鷹市武蔵境)校舎として現在も使用中。 麻布南部坂教会がヴォーリス設計により建設される。 |
★関連項目
・「花子とアン」の麻布
・続・「花子とアン」の麻布~「アンのゆりかご」に描かれた麻布
・東洋英和ラージ殺人事件
・東洋英和女学院オフィシャルサイト
・赤毛のアン記念館・村岡花子文庫
・大森めぐみ教会
・永坂孤女院1908
・赤い靴のきみちゃん