2012年10月1日月曜日

シーボルトの見た中秋の名月

中秋の名月と
麻布氷川神社 2009年
昨晩は中秋の名月。しかし台風17号の通過でほとんどの方が、
その姿を見ることが出来なかったと思われます。

今から150年あまり前の1861(万延二)年、シーボルトは二度目の来日で、赤羽接遇所(現在の飯倉公園あたり)におりました。
この滞在中、一時期横浜に出張し再度江戸に戻る短い旅行の中で
不思議な体験をします。シーボルト日記によると、


1861年9月19日(木曜日) 旧歴 八月一五日

外国奉行に江戸到着を知らせた。
月見-月祭りTsuki-mi-Mondfestが祝われた。
そのため我々は、昨日、大名行列にも会わなかった。民衆の姿もほとんどなかった。

そして覚書にも、

[覚書]月見の祭
 八月一五日、月見(tuki-mi)が行われる。神奈川から江戸に行く街道のいたる所、家の玄関の前 に二本の竹竿が立てられている。花を咲かせているススキ、ヨシ、その他の秋の植物で飾られている。

と、民衆も大名も外出を控えて、家での月見を楽しんでいた様子が記されています。
このシーボルトが江戸を訪れた江戸末期はまだ太陰暦でしたので、毎年八月一五日は中秋の名月でした。

シーボルトが滞在したこの年はアメリカ公使館ヒュースケン殺害事件高輪東禅寺の第1回イギリス公使館襲撃事件善福寺襲撃などが攘夷派によって行われ、シーボルトは毎日のように善福寺のアメリカ公使館を訪れて、ハリスと意見の交換を行っています。そんなシーボルトが見たつかの間の庶民の楽しみを、心に深く刻んだものと思われます。

その後10月まで江戸に滞在したシーボルトは、息子アレキサンダーを英国公使館書記官として日本に残し、長崎で娘イネや門弟などに別れを告げた後、帰国の途につきます。
そして明治の世を迎えると、アレキサンダーと共に次男のハインリッヒも来日して、外国人のオヤトイとして日本側の外交官として活躍することとなります。

更に時代は下って1889(明治22)年7月11日、すでに老境となっている62歳のシーボルトの娘「楠本いね」は長崎の鳴滝塾を処分し、二度目の上京をします。そして、父と腹違いの弟が滞在した赤羽接遇所のすぐ近所である飯倉片町、我善坊町、中ノ町辺に何故か執着し、1903(明治36)年8月26日76歳で麻布区飯倉片町28番地にて、その生涯を閉じることとなります。