今回はそのいねさんこと楠本いねの、さらに娘である楠本高(子)さん、つまりシーボルトのお孫さんについてのお話。
最初のご主人三瀬周三と高 |
「高」は江戸末期に行儀見習いとして宇和島藩主伊達宗城の侍女として使えましたたが、その当時漫画家の松本零士の六代前の先祖が高の最初のご主人である三瀬周三の同僚で、「たか」とも面識がありました。松本の先祖は「高」の美しさを代々松本家で語り継ぎ松本零士にも伝えられ、この記憶によって松本零士は作品で描く宇宙戦艦ヤマトのスターシアや銀河鉄道999のメーテルなどの女性像を、「高」を イメージして作った。と講演会で自身が語っているようです。
ただし高は結婚運が悪く、最初の夫三瀬周三と死別し、その後周囲の斡旋により嫁いだや山脇学園の創立一族「山脇家」に嫁ぐのですが、再び夫と死別してしまいます。
その後は再上京した母いねと麻布で同居し、芸の道を究めたといわれていますが、写真に残された高さんの表情は現代のアイドルとしても十分通用しそうな美人顔で、その容貌はCool Beautyとでもいえるような気がします。
この高さんには最初のご主人と同じ「周三」という名前をつけた男の子がおり、
山脇家に嫁ぐ際に他家に養子に出されました。しかし、それを不憫に思った高の母いねは、
孫の周三を引き取り、養子として育てました。
そしていね、高、周三親子が麻布辺を転々として居を構えていた理由は推測ですが、おそらく
周三の慈恵医大入学と深い関係があったと思われます。これは、通説で楠本いねは日本で
最初の女医といわれることがありますが、それは過ちで彼女は産婆免許しか取得していませんでした。それを憂いた福沢諭吉から何度も医師試験を受験するよう説得されますが、中年を過ぎたいねにはその受験への活力がすでになく、その分、過大に周三の慈恵医大入学に期待したのではないかと思われます。
数度の受験失敗の後にやっと入学した周三を見極めたある日、大好きな鰻を食べた後に、スイカを食べて、食あたりからか容態が急変します。そして、1903(明治36)年8月26日に麻布区飯倉片町28番で高子・周三に看取られながら静かに逝去します。
その後周三は医大を卒業後軍医となりますが、20代の若さで夭逝してしまい、母である高も昭和13(1938)年に亡くなったといわれています。