おかめ団子跡 |
こちらもほのぼのとした人情噺で、落ちも好きです。
この団子屋は文政年間(1818~1829年).から1897(明治30)年まで飯倉片町の「永坂角」に実在しました。創業者は、諏訪治太夫という釣り好きの浪人で、治太夫はある日品川沖で「耳のある亀」を釣りました。
その亀を持ち帰り、自宅の池で飼う事にしましたが、やがて噂を聞きつけた多くの人が「耳のある亀」見に来るようになりました。すると女房は、自宅の庭池のほとりに茶店を出し、珍しい亀の見物人に”亀団子”と名づけた団子を売ると、これが大繁盛となります。
二代目の女房は、”おかめ”に似ていたので”お”を付けておかめ団子としました。やがて、おかめ団子は江戸の評判となり川柳にも「鶴は餅、亀は団子で名が高し」と読まれ、また、東京のわらべ歌にも「お尻の用心小用心、今日は二十八日、明日はお亀の団子の日」などと唄われました。そしてお亀団子は以前ご紹介した「黄金餅」の噺の中にも登場します。
~飯倉六丁目へ出て、坂を上がって飯倉片町、そのころ、おかめ団子という団子屋の前を
まっすぐに、麻布の永坂を降りまして~
旧永坂 |
このおかめ団子は黄粉をまぶしてある団子で、一皿十六文でしたが明治になる五十文ほどになったと記録にあります。
おかめ団子があった場所(六本木5-18-1)は、現在「朝日屋」という文具店となっていますが、店主に聞いてみましたたが「明治期に移転してきたが、有名な団子屋の場所であったことは知らない」とのことで残念です。
○麻布区史-昭和16(1941)年
飯倉片町にあつて江戸時代には更科と並び称される程有名であつた
が、維新後なくなってしまった。尤も同名の店が明治十五年から同四十一年迄あつたが、
これは昔の店とは何等関係もない。おかめ団子は一盆の値、並は十二文、上等十六文で
あつたが、大抵の者はその何れかで満腹したと云ふ。間口三間、奥行十一間の総二階は常に
人を以て溢れ、傍の上杉駿河守、岩瀬内記などの武家屋敷の石垣には何本も薪雑棒(まきざ
っぽう)を突込んで馬方が持馬を繋いでゐたと云ふから、兎に角その繁盛は素晴らしかつたに
違ひない。
○鶏鳴旧跡志(けいめいきゅうせきし)-文化十三(1816)年
江戸期の飯倉片町 |
麻布飯倉に水野家の浪人諏訪治郎太夫と云ふもの爰(ここ)に
借宅してゐたりしが生来釣を好み秋に至れば品川の沖を家とし
て日を暮らす。或る日小さき亀一つを釣る。其亀常の亀と異り
尾先髪筋の如くふつさりとして青く如何にも小さき耳を生じたり。
治郎太夫大いに喜び持ち帰りて之を飼ふ。聞及びし人々来り見
ること布を引くが如し。治郎太夫大の妻は神奈川の百姓の娘と
て志堅く賢き者なれば、親里より米を取り寄せ団子を製して之を
売る。亀を見物に来し人々茶店に休んで団子を買ふ。夫れより
流行して亀団子といふ。治郎太夫大此団子に利を得て、女房の
親里神奈川の在に空地を求め朝暮の煙細からず暮らして今に
在り。治郎太夫大が跡へ近所の町人入り替わりて団子を製す。
此の女頬高く鼻低き女なれば、世の人亀団子を改めておかめ団子と呼びぬ。
宝暦のことなり、今は三河屋平八とて益々繁盛せり。治郎太夫大より何代目か知らず。
この鶏鳴旧跡志の後を麻布区史は、「斯程(かほど)の団子屋も七度強盗に見舞われたのがケチのつきはじめで、とうとう明治に入って間もなくつぶれてしまった。」としており、出来心の孝行息子の泥棒という噺の筋はそのあたりをなぞらせたものかも知れませんね。
現在の飯倉片町 |
DEEP AZBU 落語
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