刃傷事件当時、吉良上野介は鍛治橋に上屋敷を、麻布一本松に下屋敷を拝領していました。刃傷事件後、上野介は家督を養嗣子吉良義周(妻の実家である米沢藩上杉家の養嗣子となった上野介の実子綱憲の子を吉良家の養子とします。つまり上野介の孫が吉良家を継ぎました。)に譲り隠居となり、元禄14年8月19日に本所松坂町の元近藤登之助野屋敷に移転することとなります。
しかし、この屋敷が荒れ果てていて手入れが必要だったために、その改装中に上野介は飯倉にあった米沢藩上杉家の下屋敷または白金の下屋敷に滞在していたといわれています。しかし、これを上杉家の屋敷ではなく、自邸である吉良家麻布一本松屋敷であったのでは?との説を「麻布区史」は披露しています。
もしほんの少し歴史か違っていたら、有栖川公園で雪の別れを行い、そして討ち入りが麻布一本松?...なんてこともあったのかもしれません。
★追記
「麻布区史」では麻布屋敷の場所を、
~吉良氏の麻布下邸に就いては多くの義士伝中に全く之を伝えて居ないのであるが、其の元禄七年より同一六年(1694~1703年)に亘り、善福寺の北方本善寺徳正寺及大法寺に囲まれたる東西に長さ一廓の地に之を存したことは「府内往還沿革図書」の明示する處で尚此の邸は寛永元年(1624年)七月、其の内八百坪を有馬隼人に給し、残りの八百四十五坪を内藤主膳に預けられている。~
とし記しています。
さらに吉良上野介の妻は上杉氏であり、これにより上野介の子息「綱憲」は上杉家を継ぎ、逆に綱憲の子息が上野介の養子となって (実際は孫に当たる)嫡子として世襲することなります。
この関係により上野介は本所ではなく上杉家麻布屋敷(飯倉)に永住するとの噂が流れ、これが本当ならば上杉家邸に討ち入ることとなるかもしれないので上野介の情報を収集していた赤穂義士を慌てさせたと「義士伝」は伝えています。しかし、これは上杉家麻布屋敷ではなく吉良家麻布屋敷の間違いではないかと「麻布区史」は記載しています。
そして、その理由を四位の少将で高家筆頭の吉良家前当主が隠居後とはいえ、そして大大名たる上杉家に実子が当主とはいえそこに仮寓するのは、当時の制度からもあり得ない事としています。余談ですが、この吉良上野介の実子であった上杉家第四代藩主「綱憲」のさらに後、九代藩主となった「治憲」は後年、号を「鷹山」としていましたが、この治憲は現在の麻布高校敷地にあった高鍋藩秋月家からの養子で、治憲はこの敷地で産まれたことにより幼名を「直松、松三郎」などとつけられます。この「松」は明らかに「秋月の羽衣松」ともいわれた麻布一本松から命名されたと想像され、麻布との因縁をその幼名につけられていたこととなります。そして、10歳で上杉家養子なるまで麻布に住んでいたものと思われています。
三大名邸(細川越中守・松平隠岐守・毛利甲斐守・水野監物)で赤穂浪士が切腹をした元禄16(1703)年2月3日、幕府評定所の仙石伯耆守久尚は、吉良家当主の吉良義周を呼び出し、吉良家改易と義周の信州諏訪藩高島への配流の処分を下します。
しかし、翌年宝永1(1704)年には上杉家当主で実父の実父・綱憲が死去し、これまでの心労からか翌宝永2(1705)年10月に義周は寝たきりとなり、さらに、配流3年目の宝永3(1706)年1月20日享年21歳で死去することとなります。
<追記>
★麻布一本松吉良邸
ついにみつけちゃった正確な場所()/
十年以上前「麻布区史」を延長貸し出しを繰り返して約1年間精読していました。(現在港区立図書館は館内閲覧のみ)
この書籍は戦前の皇紀二千六百年を記念して麻布区により作られた地誌ですが、この皇紀を記念しての地誌作成は全国規模で行われていたようです。
そしてこの麻布区史は一般販売は行われず、麻布区議や区関係者と高額納税者にしか配布されませんでした。
そして戦後GHQの指導により「軍事」の部分の削除が命じられ、配布したときの資料に基づいてページの切り取りが行われました。
しかし、つい近年、切り取られていない麻布区史が発見され、その部分が復旧されています。
その中で「赤穂義士」と題された項目に真っ先に筆者が取り上げているのが吉良上野介麻布邸の記述です。
この記述により吉良上野介が麻布に屋敷を構えた(麻布区史では下邸:下屋敷としています)ことは理解しましたが、それを担保する「府内往還沿革図書」に麻布吉良邸を見つけることは出来ませんでした。
しかし...昨日数年ぶりに根気よく「御府内場末往還其外沿革圖書」を探してみると......ありました!!
麻布区史に書かれたとおり、元禄七(1694)年の麻布中央部大黒天、暗闇坂辺りの風景が姿を現しました。
そしてその古地図には、吉良上野介邸がはっきりと記載されています。
この「御府内場末往還其外沿革圖書」は年代ごとの同じ地点を描いていますので、少なくても延宝(1673年-1681年)には吉良邸は存在せず、元禄十七(1704)年の地図にも吉良邸は描かれていません。
元禄十七地図に描かれていないのは、赤穂浪士らの切腹が行われた元禄十六(1703)年二月四日、吉良義周に信濃諏訪藩へのお預けとなり吉良家は断絶、義周はそこで生涯を閉じます。
恐らくはこの時に一本松吉良屋敷は取り壊されたものと思われます。
でも何故麻布暗闇坂に吉良上野介が屋敷を必要としたのでしょうか?
私見ながら、暗闇坂の北西側は増上寺隠居所があり
・禄14年(1701年)9月3日
綱吉の実母本庄氏お玉(桂昌院殿)、
宮村町増上寺隠居所を訪問。
・元禄15年(1702年)5月2日
綱吉宮村町増上寺隠居所を訪問。
・元禄16年(1703年)9月8日
桂昌院殿、宮村町増上寺隠居所を訪問。
・元禄16年(1703年)10月18日
綱吉、宮村町増上寺隠居所を訪問。
これ以外にも綱吉は度々増上寺隠居所を訪問しています。
このように、というか頻繁に将軍家は麻布暗闇坂の増上寺隠居所を訪れています。
そして綱吉は元禄十一(1698)年四月十四日に完成した麻布(白金)御殿に江戸城から古川経由で船を仕立て、浅野内匠頭切腹後の世論による心労を癒やしたと言われます。
この他にも今回は歩けない赤穂浪士と麻布野関連はたくさんあります。
有栖川公園西脇「木下坂」の由来は木下肥後守の屋敷があったことに由来します。
この家系は中足守城主木下肥後守公定二万三千石の上屋敷で木下の氏が示すとおり、この家に養子入りした木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)というより豊臣秀吉の正室ねね(高台院)の家系です。
浅野長恒の妻は、木下肥後守公定の娘です。浅野長恒は、父は大石頼母良重(大石内蔵助良雄の大叔父)で、母は赤穂藩主浅野長直の娘です。
また、赤穂城開城の時の幕府の受け取り目付である荒木十左衛門(1500石)の上屋敷は現在の天現寺橋ニューサンノーホテルの敷地とされています。
お伝えした吉良上野介麻布一本松ですが、麻布区史は定説である吉良が本所松坂町の隠居邸を修復する間、上野介は実子が藩主となった上杉家の白金下屋敷で過ごしていたという説を覆し、麻布一本松屋敷で過ごしていたのでは?という自説を披露しています。
いづれにしても、赤穂の間者はこの屋敷を監視していたのかもしれません。
そして赤穂事件の五十年以上前の正保二(1645)年までは、現在の有栖川公園の敷地は浅野家の下屋敷でした。
この年浅野家は常陸笠間から播州赤穂への領地変えが行われています。
より大きな地図で 赤穂浪士関連史跡 を表示