心光院 |
生来慈悲深いお竹は、朝晩の自分の食事を乞食や犬猫にまで与え、自らは水板のかどに網を置いてそこに溜まった残飯・切りくずなどを食べ、常に念仏を唱えたと伝わります。そして、その行いは奇特で、お竹のいる台所からは後光が射したといわれます。
このような徳行により死後「大日如来」になったといわれ、また、武蔵の国比企郡(埼玉県熊谷市)の乗蓮という行者が湯殿山にこもり生き仏が拝みたいと願をかけると、夢のお告げでお竹を知り羽黒山の玄良坊と言う山伏と江戸にのぼり、お竹を見つけます。
そして、大日如来の化身であることが知れると、お竹は紫雲と共に昇天していったといわれ、これにより主人の佐久間勘解由は等身の大日如来像を作り供養します。この話が江戸中に広まり如来像を拝もうとする人、数知れない有様となります。そして後に、五代将軍生母の桂昌院が、お竹の女中姿の木像を芝増上寺の子院であった心光院に祀り、江戸城の奥女中にも信仰させたことから「お竹信仰」が江戸でも盛んになったと云われています。
お竹は、延宝8年(1680年)5月19日に亡くなったとされています(別説では寛永15年[1638]3月21日)。
お竹の墓は生前雇われていた佐久間家に弔われていましたが佐久間家断絶後には、その親戚の馬込家に引き継がれ、その馬込家の菩提寺であった北区赤羽の善徳寺にあります。そして生前に雇われていた佐久間家の菩提寺である心光院にはお竹が使ったと言われる「水盤(流し板)」が伝わり、この板はお竹の死後、 五代将軍綱吉の母・桂昌院が寄進したと言う三つ葉葵の紋入の蒔絵のある黒漆塗りの箱におさめられ現存します。
しかし、本来ならば生前雇われていた佐久間家の菩提寺である心光院にあるべきだと思われますが、何故か祭祀を引き継いだ馬込家の菩提寺である善徳寺にあるなど、疑問も多く残されています。
有形文化財の表門 |
流し板が保存されている心光院は増上寺の学寮として開設され、増上寺が家康入府後貝塚(現・千代田区紀尾井町)から移転した時に、芝切り通しの涅槃門付近(現・芝高校辺)に移転します。さらに宝暦十一(1761)年に九代将軍徳川家重霊廟造営のため赤羽橋北詰西側に移転し、昭和ニ十五(1950)年現在地に移りました。そして、戦災を免れた表門は国の有形文化財に登録されています。ちなみに現在の寺地は完全に芝の領域であるにもかかわらず、「東麻布」の住所となっています。
当時このお竹如来は、浮世絵、歌舞伎、俳句にも表わされ庶民の人気が偲ばれる。お竹を題材にした作品を以下に。
- 滝沢馬琴....免園小説
- 式亭三馬....お竹大日忠孝鑑
- 十返舎一九...お竹大日絵解
- 小林一茶....句、「雀子やお竹如来の流し元」「守るかよお竹如来のかんこ鳥」「雪の日やお竹如来の縄だすき」
- 歌川国芳....お竹如来昇天の図
お竹大日堂 |
お竹如来像と桂昌院奉納の箱 |
江戸末期の心光院 |
お竹如来縁起 |
心光院寺地の変遷 |
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