2012年12月14日金曜日

赤穂浪士の麻布通過


泉岳寺義士祭
子供の頃、近所の古老に「赤穂浪士は暗闇坂を通ったんだよ」と聞いたことから、ずっとそのように思い込んでいました。しかし幾度か赤穂浪士関係の書籍を読むうちに、そうかな?っと疑問が湧いてきました。そこで、赤穂浪士の「麻布通過」はあったのかを調べてみました。

なぜそう思い込んでいたのかというと、もちろん討入り前に麻布を通過するはずはないのは承知していましたが、討入り後、
  1. 本所吉良邸から泉岳寺に向かう引き上げ道中として主道を避けるための迂回路として暗闇坂を通過 。
  2. 長府毛利藩に預けられた者が泉岳寺から長府藩邸に向かう過程で暗闇坂を通過 。

のいづれかであろうと想像していました。しかし、
  1. 討入り後の浪士一行はは芝大門あたりから東海道に出て、そのまま泉岳寺まで通行していることがわかり、暗闇坂は通過していない。
  2. 討入り後、赤穂浪士の諸家預かりは泉岳寺では行われておらず、虎ノ門にある仙石伯耆守屋敷から日ヶ窪までの行程となり、暗闇坂は通過できない。

と判明し、暗闇坂の通過は単なる風聞であったことが確認されました。しかし、赤穂浪士は本当に麻布を通過していなかったのでしょうか?.....

将監橋
元禄15(1702)年12月14日が討入りが決行されたとされているが、正確には12月15日午前4時頃から午前6時頃までの2時間あまりで吉良邸の討ち入りは行われています。
討入り後の浪士一行は本所吉良邸から泉岳寺に向かい、汐留あたりで本隊から別れた吉田忠左衛門と富森助右衛門が、大石内蔵助の命により芝明船町(現在の虎ノ門病院付近)の仙石伯耆守邸へ「討入りの口上書」を提出るためにむかいます。

さらに、本隊はそのまま芝大門手前から東海道に出て泉岳寺へと向かいましたが、金杉橋辺で磯貝十郎左衛門は将監橋の義兄の長屋に住む重篤の母親を見舞うように大石内蔵助から勧められ、

「すでに別れは済ませた」

として隊列を乱しての面会を固辞したと伝わります。

御田八幡神社
そのまま泉岳寺へとむかう一行が札の辻を過ぎて三田八幡にさしかかると、群衆の中から元赤穂藩士で「江戸急進派」と呼ばれ、討入り最強硬派でありながら突然脱盟してしまった高田郡兵衛が浪士の前に現れます。しかし、浪士一行に冷たくあしらわれてしまいます。郡兵衛はその後も、泉岳寺の浪士の元に祝い酒を持参するのですが、浪士からさんざんに罵倒され引き上げるという汚点を残しました。 (高田郡兵衛は浪士が切腹した後に風聞をはばかった養子先から追い出され、自害したとも伝わります。)

浪士一行の泉岳寺到着は午前8時頃といわれ、大石内蔵助の命を受けた寺坂吉右衛門が一行から離脱したのも泉岳寺到着時とするものが多い。その後の泉岳寺での浪士の様子は省略しますが、吉良の首を浅野内匠頭墓前に供えて回向している頃、幕閣も仙石伯耆守の知らせを受けて大混乱となっていました。
そして閣議により、熊本藩細川家・水野家・長府藩毛利家・松平家・の四家への預け入れが決まり、各家に引き取りが申し渡されます。これにより預かりを命じられた各家では浪士引き取りの藩士を差し出しますが、途中から引き渡しが泉岳寺から仙石伯耆守邸へと変更となります。そのときの各家の引き取り護衛人数は総勢で1500人以上と驚くべきものがあります。














赤穂浪士お預け四家
家 名 藩 主 領 地 藩 邸 現 在 石 高 護 送
藩 士
お 預
浪 士
主な浪士 備 考
細 川 越中守綱利 肥後熊本 高輪下屋敷 高松中学 54万石 847人 17名 大石内蔵助 最厚遇
水 野 監物忠之 三河岡崎 芝中屋敷 慶應仲通り 5万石 153人 9名 間重次郎光興 細川家に続いて厚遇
毛 利 甲斐守綱元 長門長府 日ヶ窪上屋敷 六本木ヒルズ 6万石 200余人 10名 岡島八十右衛門 冷遇後改善
松 平 隠岐守定直 伊予松山 愛宕上屋敷 慈恵医大 15万石 304人 10名 堀部安兵衛 1泊のみ滞在
三田中屋敷 イタリア大使館








やや冷遇




    
仙石伯耆守邸跡
仙石伯耆守邸跡
    
仙石伯耆守邸説明板
仙石伯耆守邸説明板



この大人数の警護の元での引き取りは、明らかに吉良上野介実子である藩主綱憲を擁する上杉家の仇討ちを警戒してのことであったと考えられますが、実際に上杉家では、麻布屋敷と上屋敷で藩主の命により赤穂浪士討ち取りの準備をしていました。この上杉家の報復を映画やドラマでは家老千坂兵部に諫言され、やむなく断念したことになっていますが、実際には幕府の命を受けた縁戚の高家畠山義寧が押しとどめたといわれています。

一方の泉岳寺では、途中から引き渡しが泉岳寺から仙石伯耆守邸へと変更となったことからすでに泉岳寺に参集してしまっている各家引き取り人でごったがえしていました。そして夕方6時頃、浪士はようやく泉岳寺から仙石邸へとむかうこととなります。けが人を6挺の駕籠に乗せ、その周りを警護するように進んだ浪士一行ですが、この時の道行きが、

泉岳寺東海道札の辻三田通り赤羽橋飯倉交差点→芝西久保→芝明船町(現在虎ノ門病院付近)の 仙石伯耆守邸


   
熊野横町
熊野横町




    
老舗 萬屋
老舗 萬屋
となっており、この道行きにおいて赤羽橋手前では、大石内蔵助が主君切腹後にはじめて江戸に登り、在府強硬派同士と会合に及んだ場所に三田松本町(現・三田国際ビルの三田道りをはさんだ反対側あたり柳神社周辺)の自宅を提供した元浅野家出入りの日雇頭・前川忠大夫が沿道から見ていたことは間違いないと想像されます。
また飯倉熊野神社脇の「熊野横町」は、麻布区史によると堀部安兵衛が居住していたとされており、顔見知りが沿道で挨拶を交わしたと想像されます。そして飯倉交差点にあった老舗「萬屋」には堀部安兵衛直筆の討入り直前の書状が残されており、当主とは昵懇であったと考えられるので、当然当主家人が沿道で見送ったと想像されます。


この萬屋は麻布七不思議の一つに数えられる「我善坊の猫又」の当事者であり、書籍では、 島崎藤村が「大東京繁昌記-飯倉付近」で、
~この界隈には安政の大地震にすらびくともしなかったというような、江戸時代からの古い商家の建物もある。紙屋兼葉茶屋としての万屋(深山)、同じ屋号の糸屋、畳表屋~(P10~11)
と記しています。
また文政江戸町方書上では万屋について、
延宝の頃より当町家持ちにて罷りあり、両替太物商い致し候ところ~同人妻は伊兵衛の姉にこれあり、万屋一統と唱え、いづれも深山氏に御座候。
として深山一族を記しています。さらに「麻布区史」では元禄期の萬屋当主・深山伊兵衛堀は部安兵衛と親交があり、討ち入り直前に安兵衛からの手紙を受け取っていると記しており、その内容を掲載しています。


亡主内匠頭志を達し継べきため

同氏弥兵衛我等この

たび亡命致し候、母・妻ならびに

文五郎儀、貴様相替らず

御懇意、別て頼み入り存じ候、

御内儀様・仁兵衛殿へも、

右の段、よくよく仰せ伝えられ

御心得下さるべく候、頼み存じ候 巳上


一二月十四日 堀部安兵衛

深山伊兵衛様






   
仙石邸移動図
仙石邸移動図
護送にあたって幕府は御徒目付に沿道を監視させ、さらに沿道のすべての武家屋敷には高針提灯が掲げられ、その門には門番が張り付いて上杉家の襲撃を監視したといいます。 そして飯倉片町で兵を供えていた上杉家の直近である飯倉交差点を通過する際には、討入り後最も危険な行程となり警護にも非常な緊張感があったと想像されます。
しかし....実際には上杉家の襲撃はありませんでした。(出来なかった?)

このように浪士一行は赤羽橋~飯倉と麻布最東部を通過しながら仙石邸へと向かっていますが、その人数は、仙石邸に口上書を届けた吉田忠左衛門と富森助右衛門の2名と泉岳寺門前で大石内蔵助から暇を出された寺坂吉右衛門を除く44名が同時に通過したものと思われます。そしてこの時の麻布通過に参加していない寺坂吉右衛門は、後に曹渓寺のつとめを短期間果たした後に土佐藩支藩である土佐新田藩(麻布藩と呼ばれ、唯一の麻布を冠する藩名を持つ小藩で藩邸は曹渓寺直前の麻布新堀町付近) に仕官し、麻布とのかかわりを終生持つこととなります。




    
麻布氷川神社
麻布氷川神社
★付記
 麻布と赤穂事件のかかわりはこの他にも吉良上野介麻布一本松に屋敷を持っており、本所松坂町屋敷の改築時には一般的に言われている上杉家高輪屋敷ではなくこの一本松邸で過ごしたのでは?と「麻布区史」は疑問を投げかけています。

また、赤穂浪士討入りが成功した理由の一つに吉良上野介の本所松坂町屋敷における確実な在邸が確認された事が考えられますが、 12月14日に吉良邸で茶会があることを赤穂浪士に告げたのは京都から下向中であった荷田 春満かだの あずままろといわれています。そして大高源吾が吉良家情報入手のため山田宗偏へ入門したのも荷田春満の紹介であるといわれており、荷田春満が討入り成功にはたした役割は決して小さくありません。 
この荷田春満は大石内蔵助の旧知の友人であったといわれており、麻布氷川神社社家の先祖とされているようです。さらに麻布氷川神社の江戸期の別当寺で社の境内にあった「徳乗寺」が所属していた芝愛宕の「真言宗智山派 真福寺」は、大石内蔵助が主家再興を遠林寺住職祐海を通じ真福寺第七世性偏をして幕府に働きかけていたといわれ、麻布氷川神社と忠臣蔵との因縁は浅くありません。

その他、現在の有栖川公園は江戸期南部盛岡藩邸でしたが、相対替え(等価交換)で屋敷が赤坂に移転するまでは浅野家の屋敷(赤穂に転封前の笠間藩浅野家下屋敷)であったことも付記とします(詳細はむかしむかしでどうぞ)。

このように麻布と赤穂浪士は数々の因縁があることが判明しましたが、冒頭の「暗闇坂通過」を確認することは出来ませんでした。しかし、幕末期に父に手を引かれ、暗闇坂から四之橋を抜けて(暗闇坂通過は筆者の私見ですが、古川橋が無かった江戸期には日ヶ窪から泉岳寺に行くには四之橋を渡らなければならなかったと筆者は考えています)最低でも月に一度は泉岳寺に赤穂義士を参詣していた少年がいた。その子供の名前を......乃木希典といいます。




<元禄期庶民に詠まれた落首>



細川の 水の(水野)流れは清けれど 
ただ大海(毛利甲斐守)の 沖(松平隠岐守)ぞ濁れる
置き(松平隠岐守)に甲斐(毛利甲斐守)ある大石を
細川水の(水野)堰き止めよかし