竹芝伝説でもふれた三田四丁目の済海寺近辺を含めて、聖坂を上がったあたりから伊皿子のあたりは高台で、昔は東側の海が見下ろせました。夜になると海から上る月がまことにきれいだったので、慶長にころ徳川家康がこのあたりを「月の岬」と呼び愛したといいます。
名所江戸百景「月の岬」
歌川広重
その後庶民も観月を楽しむようになり月の名所として有名になったそうです。また月之見崎と唱え潮見崎と共に、七崎の一つに数えられましたが、やがて人家が増え面影はなくなったといいます。
前項の竹芝夫妻もこの名所で月を眺め、年を重ねていったのでしょうか。残念ながら現在は海も見えず昔の面影を求めるのは難しいとおもわれます。
この月の岬について、
◎文政町方書上は三田台町一丁目の項で、
一.里俗月の見﨑
- 右月の見﨑と唱え候儀は、当町高き場所にて海辺を見下しこれあり、景よろしき場所ゆえ、町内町内御高札場近辺を相唱え申し候。右見﨑につき、秋元中納言様御歌の由申し伝え候
秋ならは月の見﨑やいかならん
済海寺辺
名は夏山のしげみのみして
としています。また◎近代沿革図集では、
江戸名所図会
高輪海辺七月二十六夜待
- 慶長年間、家康がここから海上の月を称美しこの地名をつけたという説がある(十方庵遊歴雑記)
- 伊皿子大円寺境内の名であるが、いまはその辺の呼び名としている。月夜の海上の眺めがすぐれていて地名となったという。(御府内備考)
- 三田済海寺辺の総名である。古くは潮見﨑とともに7﨑の一つであったという。(穢土名所図会)
- 三田台一丁目から伊皿子台までを月の岬という。(東京府志料)
- 伊皿子のうちに月の岬と称するところがあったという。(新選東京名所図会)
- 三田台一丁目から伊皿子町をむかし月の岬といい、観月の地であった。人家が増して旧観はない。(東京案内)
などとしています。またこの「月の岬」の定義をもう少し緩くして
品川御殿山あたりまでの尾根道(旧奥州道・鎌倉道)を総称していたようで、二十六夜待ち・十五夜・十三夜などの観月は茶屋などのイベントとなり信仰からやがて深夜までの遊びの口実へと変化していったようです。
月の岬
☆追記
札の辻ツインビル裏手には、済海寺・聖坂上と連絡するエレベーターがあります。このエレベーターを地元では「月の岬エレベーター」と呼んでいるようです。また、高輪郵便局脇から亀塚公園・ビオトープ方面に上る階段がある斜面は「月の岬渓谷」 とも呼んでいるそうです。
ツインビル裏手の「月の岬」エレベーター |
地元で月の岬渓谷とも呼ばれる亀塚公園階段 |
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