2013年2月26日火曜日

二.二六事件と興国山賢崇寺

興国山賢崇寺 二.二六事件慰霊祭
昨日は、二.二六事件の概要と、麻布付近の連隊が中心となってクーデターを起こしたことをお伝えしましたが、事件の処理は軍事法廷で行われました。その中で基本的に兵は無罪とされましたが、蹶起した将校など17名に死刑判決が下り、わずか五日後の七月十二日、代々木の陸軍刑務所内北西に設置された刑場で銃殺刑が執行されました。

当日の銃殺刑執行に当たって、隣の代々木練兵場では空砲を使った射撃練習を行い、刑執行の銃声を消そうとします。しかし、射撃練習中の兵士には実弾発射音と空砲の音の区別はついていたといわれています。
刑の執行は五人一組で行われ、

○午前七時香田清貞大尉・安藤輝三大尉・竹嶌継夫中尉・対馬勝雄中尉・栗原安秀中尉
○午前七時五十四分丹生誠忠中尉・坂井直中尉・中橋基明中尉・田中勝中尉・中島莞爾少尉
○午前八時三十分安田優少尉・高橋太郎少尉・林八郎少尉・渋川善助・水上源一

の十五人の刑が執行されました。しかし二.二六事件で死刑宣告を受けていたその他、元歩兵大尉の村中孝次と元一等主計の磯部浅一は北一輝西田税の裁判で証人となっていたため刑の執行が延期され、北らの裁判が結審し死刑が確定すると8/19に北・西田らと共に銃殺刑が執行されました。


興国山賢崇寺 二十二士之墓

これら二.二六事件死刑囚は刑が執行された後に遺骸はただちに遺族に引き渡されました。しかし、憲兵隊、特高警察などが監視し、最寄り駅での下車は遠慮せよとか、葬儀は行うななどの嫌がらせを繰り返し、ほとんどの菩提寺が遺骨の埋葬を行えない状態となってしまったようです。
これに対して事件勃発以降、息子栗原安秀中尉のクーデター参加を知った父の元陸軍大佐・栗原勇は総持寺で仏門に帰依し(直接賢崇寺に帰依したとの説もあります)、事件関係者遺族の連絡会「仏心会」を結成します。また栗原氏は佐賀県出身でもあったので、総持寺の末寺であり、また旧知の檀家でもあった賢崇寺を訪れて、住職の藤田俊訓師に息子の遺骨を賢崇寺へ埋葬することを相談しました。すると藤田師は即座に許可し、後には同じように国賊扱いをされて行き場のなくなった事件関係者の慰霊をすべて引き受けることとなりました。

興国山賢崇寺佐賀藩初代藩主の鍋島勝茂が疱瘡で亡くなった息子の鍋島忠直を弔うために建立された寺です。寺号は息子忠直の戒名「興国院殿敬英賢崇大居士」から「興国山賢崇寺」とし、歴代佐賀藩主鍋島家の菩提寺となっていました。

そして、それまでの賢崇寺は佐賀県人しか埋葬されることを許されませんでしたが、藤田師が周辺住民も檀家となることが出来るように改革を行います。

この二.二六事件中核将校の遺骨を葬ることを決めたときから頃から賢崇寺は特高警察と憲兵隊に目をつけられ、様々な迫害をされたようです。しかし、藤田師はそれらをはねのけて7月12日の15名が死刑を執行された日から数えて百か日となる10月19日に法要を執り行うことを決定します。
しかし、当局は遺骨の戒名にまで介入し、その結果各菩提寺の戒名が不統一でしたので、賢崇寺にてそれらをすべて院号に統一し位牌をつくりました。

野中四郎 直心院明光義剣居士
河野 寿 徹心院天岳徳寿居士
香田清貞 清貞院義道日映居士
安藤輝三 諦観院釈烈輝居士
竹島継夫 竹鳳院神厳継道居士
対馬勝雄 義忠院心誉清徳勝雄居士
栗原安秀 至誠院韜光冲退居士
中橋基明 至徳院釈真基居士
丹生誠忠 丹節院全生誠忠居士
坂井 直 輝証院釈直入居士
田中 勝 解脱院勝誉達空一如居士
中島莞爾 堅節院莞叢卓爾居士
安田 優 安寧院丹田優秀居士
高橋太郎 高忠院水橋不流居士
林 八郎 誠徳院一貫明照居士
渋川善助 泰山院直指道光居士
水上源一 源了院剛心日行居士



当日は赤坂憲兵分遣隊から憲兵が、警視庁と鳥居坂警察署からは特高刑事が警備と称して多数詰めかけました。しかし、賢崇寺の本山である総持寺貫主、曹洞宗大本山永平寺貫主からも香語(仏前で唱える言葉)が送られ、曹洞宗の各寺から賢崇寺に派遣された伴僧は16名に上り、文字通り曹洞宗が宗派をあげて藤田師を支援しました。このようにして始まった法要は45名の遺族が参列し、本来妨害するために来ていたはずの特高刑事たちも藤田師の勧めに従い法要に参加したそうです。

事件関係者の量刑と執行
そして何事もなく無事に終わった法要は、その後も合同慰霊法要として月命日の12日、周忌法要、2月26日、7月12日の慰霊祭として現在も続けられています。
また2月26日の法要では蹶起将校の慰霊に止まらず、犠牲となった重臣、警護警察官なども慰霊されるようになりました。そして、憲兵隊、特高警察による妨害はその後も終戦まで続きますが、藤田師は毅然として法要を続けたそうです。遺族から預かった遺骨は本堂に安置されていましたが昭和20年4月15日の空襲で本堂が罹災全焼し、遺骨も焼けてしまいます。しかし、遺骨を入れていた厨子の破片から遺骨を探し出し、再び納骨しました。それらの遺骨は現在「二十二士之墓」となって賢崇寺墓域に埋葬されています。

二十二士とは自決将校2名に事件関与死刑者19名、そして二二六事件とは直接は関係ありませんが、やはり陸軍内部の皇道派統制派の確執から陸軍省軍務局長の永田鉄山少将殺害犯とされ、ほぼ同時期に死刑が執行された歩兵第四一連隊(広島)の相澤三郎中佐が眠っていることに由来します。

また、「十番わがふるさと」によると、昭和20年に麻布山地下壕を掘削していた海軍部隊で、終戦時に部下から恨まれていた兵士が賢崇寺にリンチを恐れて逃げ込んだとの記述があります。


~とにかく陸戦隊のやる仕事だ、素人であり失敗もある。ある時、賢崇寺の深い井戸の底を抜いてしまい、掘っている兵も大洪水にびっくりしたが、寺も水がなくなり困った。兵達も壕から月がさし込むので、風流な兵士が「井戸の蛙とそしらばそしれ月もさし込む花もちる。」と、都々逸まがいで唄ったかもしれない。仕事は突貫工事だから、下級の兵はかわいそうで見ていられない。陸軍で経験のある地元の熊田さんも、表道りで叱られている兵士を見ると幾度かたしなめたと言っていた。このなかに特にひどく怨まれたのがいた。

兵隊たちは、おりあらば叩き殺してしまおうと、相談していた。終戦の翌日、方丈は仏像のあるバラックで一人自炊の夕食をしていた。そこへ一人の海軍兵士が、色青ざめた顔をして恐る恐るはいってきた。夕食中の方丈は、兵士のただならぬ様子に箸をおいてたちあがり入り口にいって「何事ですか」と問うと「私は今、殺されようとしています」「助けてください」と身をふるわせている。「私は南山小学校の兵舎で、仕事をしている海軍の兵士です。部下に無理な仕事をさせ虐待しました。軍の解散命令とともに、部下がこぞって上官である私を殺そうとしているのを知り、このお山に逃げてきたのです。私を追って後からすぐ来ると思います。かくまってください」と手を合わせている。

そうしていると、下の方から数人の声とともに、石段を登ってくる足音が聞こえてきたので、方丈は「とにかくここへお入りなさい」と、男を仏壇の奥へ押し込んだ。そして膳の前へすわった時、表から兵士が七、八人飛び込んできた。そしてやにわに「坊さん、ここへ今一人の兵士がきたでしょう」と威丈高に声をはずませた。方丈は、静かに立ち上がり入り口まで出て、これらの兵士を見まわし「兵士のごときはこないが、何かあったのかな」と言うと、「たしかにこの山に来たのを見たのです」と兵士達は、室の中へたちいろうとしているのを見て、方丈は剣道五段、しかも陸軍志願で鍛えた声で、大喝して言った「何事か!君たちは住職の私が言っている事が信用できんのか。だったらこの山から出て行くがよい。注意のため言っておくが、このお山は鍋島藩の殉死した葉隠武士が多く眠っている所だ。たとえ本人がいても暴力を加える事は許さんぞ」と禅で鍛えた声で厳然たる態度で、彼らを睥睨(ヘイゲイ)したので一同は黙ってしまった。

上官らしいのが「わかりました」と答え、「失礼いたしましたお許しください」と慇懃に挙手の礼をして同行十人ばかりと山をおりていった。一時間ほど間をおいて、仏壇の奥から兵士を出して、うれしなきに泣いている彼に向って過去のことは一切水に流し、一時も早く親元に帰りなさいと諭した。地獄で仏に出会った彼はいくかどか方丈に最敬礼をしていそいそと山をおりていった。八月の月は何事もなかったように、静かに山を照らしていた。~



という終戦時のエピソードも残しています。

<追記:2021.0226>

作家もりたなるお氏の著書『鎮魂「二・二六」』という短編集の中に収録されている「号令と読経」にはこの二・二六と賢崇寺の関わりが多分実話からの引用として詳細に記されています。




















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