2013年1月13日日曜日

宮村町の宗英屋敷



前記岡場所の鎌倉屋が有馬藩士により取り壊され、奉行の裁決により野原となってしまった土地に、やがて北日ヶ窪町から拝領屋敷が移転してきます。
宗英屋敷 敷地の変遷
文化元年(1804年)頃、麻布宮村町増上寺隠居所わきに宗英屋敷と呼ばれる屋敷がありました。これは将棋所(幕府の官制で、将棋衆を統括する役。厳密には「名人」と違いますが、実際はほぼ同義)の拝領屋敷で主人は織田信長、豊臣秀吉の御前でたびたび将棋を披

露し信長から宗桂の名を与えられ、1612年に徳川家康から五十石五人扶持を賜った宗桂から数えて大橋家六代目の当主大橋宗英(1756~1809)でした。
宗英は、現在も江戸期を通して最強の棋士といわれ、当時「鬼宗英」の異名をとったといわれています。宗英は大橋分家の五代宗順の庶子で幼少のころ里子へ出されていましたが、将棋の才能を認められ、家に呼び戻されます。18歳で宗英を名乗りますが、将棋家の者との対戦は無く、民間棋客との対戦が続き、御城将棋への初勤は23歳で、将棋家の者としては遅かったようです。
しかしその後大成し、その将棋は相掛り戦法や鳥刺し戦法を試みるなど現代の棋士にも通じる将棋感覚で、新しい将棋体系の創造に力を尽くしたため、近代将棋の祖といわれています。

1790年(寛政2年)の九代宗桂との対局は御城将棋史上の名局とされ、また、将棋家の秘伝といわれる定跡の出版を奨励し、民間棋界の発展に大きな影響を与えました。

しかし一方では、詰将棋は充分発達したので、これからは指将棋を発達させようと考え、みずから詰将棋の献上を止めてしまったそうです。これは看寿・宗看に及ばぬことを悟ったためであったといわれています。詰将棋を一題も作らなかった彼は、人に理由を聞かれて「詰将棋なら桑原君仲にでもできるではないか」と答えたと言い現在も伝説として伝わっています。
そして彼以後の将棋家元も、彼にならって「詰将棋蔑視」を唱え続けたので、詰将棋は急速に衰退しその影響は昭和初期まで続く事となります。
移転前の宗英屋敷があった
現在の六本木ヒルズ前

そんな宗英も「耳袋」によると、子供の頃子守りや年季奉公に出ても何一つ満足に勤まりませんでした。しかし、8代目大橋宗桂に将棋を教わると長年研鑚してきた有段者達を瞬く間に打ち負かしたといいます。そして名人になってからも、相手が子供や無段の者であっても他の棋聖と違って拒まずに相手をしたといい、生まれながらの上手であると書かれています。(耳袋巻の6・好む所によってその芸も成就する事)

大橋宗英その最後は、御城将棋の日に病をおして登城したが、その日に死ぬという劇的な幕切れで生涯を終え、「鬼」の名にふさわしい最後であったそうです。





○文政町方書上
地誌御調書上帳

麻布宗英屋鋪

一.お城より坤(ひつじさる-西南)に当たり、およそ一里余り。

右拝領屋敷の儀、相渡り候年代知れ申さず、麻布宮村町のうち西側北角にて御将棋所大橋宗看名前にて、拝領致し候や年代知れ申さず、古来は宗看屋鋪と相唱え、その後、宗英屋鋪と相唱え、当時は宗与所持に御座候えども、やはり旧名宗英屋鋪と相唱え申し候。もっとも、以前は寺社御奉行御支配のところ延享二丑年二月町御奉行嶋長門守様・能勢肥後守様御勤役の砌、町方御支配に相成り申し候。かつ、町会所(まちかいしょ) 七分積金相納め候節は右町名相唱え候えども、その余の儀は一躰に宮村町と相唱え来たり申し候。

但し、延宝年中まで北日ヶ窪町にこれあり候。その後、御用地につき当所へ替地拝領の由申し伝えども、年代書留など御座なく、委細の儀相分かり申さず候。
移転後の宗英屋敷敷地
一.間数

南北へ表田舎間四間五尺、裏幅同断
南の方奥行四十四間
東西へ
北の方向四十間
惣坪数三百四十五坪
一.隣町の名

東の方
麻布宮村町
同所宮下町
西の方
麻布宮村町
御書院番 池田甲斐守組
内藤熊太郎様
南の方
麻布貞喜屋鋪
北の方
同所宮下町
小普請組 石川民部組
中野藤之助様

小普請組 長井五右衛門組
岡田力次郎様
一.惣家数二十七軒
但し、家守一軒 地借二軒
店借二十四軒
拝領主地に住居仕り候。
右の通り取り調べ申し上げ候。このほか御箇條の廉々、当地には御座なく候。以上



文政十一子年二月

麻布宗英屋鋪

名主 栄太郎 印






○近代沿革図集
宗英屋敷

増上寺隠居所わき、宗看屋敷、宗与屋敷ともいわれる。
麻布宮村町のうち西側の北角。将棋所大橋宗看が町屋敷を拝領したものか、その年代はわからない。昔は宗看屋敷と唱え、後に宗英屋敷と称した。今は宗与が所有しているが、旧名を用いている。以前は寺社奉行の支配であったが、延享2年(1745年)2月から町奉行の支配となった。町会所へ七分積金を納めるときは宗英屋敷の名を称するが、その他のときは宮村町という。延宝年中(1673~1680)までは北日ヶ窪町にあったが、その後用地となって当初へ替地を拝領したという。年代はわからない。




○東京35区地名辞典
麻布宗英屋敷

宮村町北東部の旧町名。江戸期から明治2年まで。もとは御将棋所名人大橋宗看が拝領したことから宗看屋敷と称したが、後に宗英屋敷と呼ばれるようになった。明治2年、隣接する麻布貞喜屋敷とともに麻布宮村町に合併。




宮村町にはこの他にも宗英屋敷の隣に、西の丸表坊主早野貞喜の拝領屋敷である貞喜屋敷があり、この2つは宮村町内の拝領屋敷として各書に書かれています。



★付記2011.4.17
この屋敷を調べた10年前、北日ヶ窪町から移転した宗英屋敷の位置を一本松付近に描かれている「拝領屋敷(後の一本松三井家敷地)」だと思い込んでいましたが、再度調べ直した結果上記の位置であることが判明しました。 
これは上記文中にもあるとおり宗英屋敷・貞喜屋敷ともに七分積金納入時以外には宮村町の町域として扱われているため、ほとんどの地図に宮村町としか表示されていないたでしたが、今回の再調査で「麻布広尾辺絵図」を偶然目にすることが出来て、場所の特定が可能となりました。

明治初期隣地に設置された
南山小学校(通称:暗闇坂校舎)
しかし一方で、宗英屋敷とそれに隣接する貞喜屋敷の位置が「麻布広尾辺絵図」では、宗英屋敷が南の増上寺隠居所側、貞喜屋敷が現在の十番商店街通り側に描かれていますが 「文政町方書上」には宗英屋敷の南側に貞喜屋敷が隣接しているとの記述があり、地図と文政町方書上では両屋敷の位置関係が逆となっていることも判明しました。 これは「文政町方書上」が発行されたのが文政十(1827)年ころで、 地図「麻布広尾辺絵図」が描かれたのは嘉永二(1849)年と20年ほどの差異があるため、その間に敷地を交換していることも考えられますが、依然としてこの部分には謎が残っています。

そして明治9(1876)年には、この宗英屋敷と隣接する貞喜屋敷の敷地の南に隣接する土地で南山小学校が創立され、明治27(1894)年に現在の六本木高校の場所に移転するまで校舎(通称:暗闇坂校舎)として使用されていました