2013年1月9日水曜日

麻布市兵衛町の静寛院宮(皇女和宮)


明治10年9月2日箱根塔の沢の旅館環翠楼で、脚気の湯治療養のために滞在していた一人の女性が、心臓発作でこの世を去りました。
女性の名は静寛院宮。元の名を和宮といいました。享年32歳。和宮は弘化3年(1846年)潤5月10日に仁考天皇の皇女として、母方の実家で権大納言の橋本実久の邸内で生まれました。

明治東京全図 1876(明治9)年
しかし、父仁考天皇は和宮か生まれる年の正月に崩御し、その後に兄の孝明天皇が即位します。誕生から七夜の潤5月16日に命名の儀が行われ、孝明天皇より「和宮」という名を賜ります。先例では、命名の後産後の忌開けを待って宮中に帰還されるのですが、宮中の都合からその後も外祖父の実久に養育され桂宮邸に移居するまでの14年間を過ごす事になります。
嘉永4年(1851年)、6歳を迎えた和宮に兄、孝明天皇の言いつけにより、その時17歳の有栖川熾仁親王と結婚の内約を結びました。
そして安政6年(1859年)和宮が14歳になると来年、有栖川家に入輿することが決められ、その準備のため桂宮邸に移居して平穏な日々を送っていました。


しかし万延元年(1860年)突如として幕府より将軍家茂の夫人に皇女を迎えようという動きが論議されるようになり、当初、和宮の姉の敏宮、今上天皇の皇女、富貴宮そして和宮の名が噂されましたがその年齢の近さ(家茂と和宮は同年同月生まれ。)などから次第に和宮の名が囁かれるようになったといわれています。
そして幕府は4月1日、老中連署による奉書を所司代酒井忠義に送り、和宮降嫁の内請を関白九条尚忠に申し入れることを命じます。
最初内奏をためらった九条尚忠も幕府からの度重なる催促により5月1日、孝明天皇に奏上しました。天皇は不快に思いながらも、公武一和を目的としたこの縁組を拒絶した場合の影響を考え、苦慮します。そして、幕府の内願を謝絶することに決し、5月4日九条尚忠を通じて幕府に伝達しました。この時謝絶の理由としてあげたのが、
  • 和宮は、すでに有栖川宮との婚約が成立しているので、破談にしては名義にもとる。
  • 和宮は、先帝の皇女でしかも妹宮なので、天皇の思召のままになしえない。
  • 和宮は、関東に異人が来集するので恐怖している。

1876(明治9)年芝浜崎町の
有栖川邸(現芝離宮)
の三点でした。そして幕府の朝廷への弾圧(前年の安政の大獄のような)を憂慮し、謝絶は幕府に対する隔心によるものでは無いとの思召を附言します。
しかしその後も執拗に奉書を奏上し、反対派朝臣への弾圧も行ったため、天皇は岩倉具視などの建言により、攘夷、鎖国の復旧などを条件に降嫁問題の交渉を開始することとなります。

そして和宮の固辞、寿万宮の代替、公家らの暗躍などの紆余曲折を繰り返したのち、10月18日降嫁の勅許が出され、文久元年(1861年)10月20日1856人の大行列で中仙道を関東下向が始まりました。
11月15日に江戸入りし九段の清水家に到着、12月11日に江戸城本丸の大奥にはいり、翌文久2年将軍家茂と婚儀をあげます。
当初、宮中と大奥の作法の違い、侍女の待遇などから天璋院との確執が噂されましたが、和宮側の配慮により、しだいに沈静化され、 そして家茂ともしだいに睦まじくなったそうです。
 
しかし平穏は長くは続かず4年後の慶応2年7月20日、第2次長州征伐で大阪城に滞陣していた家茂が21歳で死去しました。7月初め江戸に家茂重態の知らせが届くと、和宮は自ら塩断ちの上、お百度参りを行い、また諸社寺に祈祷せしめ、病気の快癒を祈いましたが崩御の知らせが届いた7月25日、髪を落し仏門に入る決心をして、その髪の一端を自筆の阿弥陀仏の名号と共に、大阪 に送り、家茂の棺におさめて冥福を祈りました。
 
遺骸が大阪から戻り、増上寺に葬られるた後、12月9日には薙髪(ちはつ)の儀式を行い天皇 より賜った「静寛院」を名乗る事になり無き夫の菩提を弔います。
その後、鳥羽伏見の戦いに端を発した幕府の瓦解時には、一命を賭して徳川家の存続を天皇に嘆願し、棔家の家名を守った。この時江戸攻めの総大将は、昔の許婚である有栖川熾仁親王が東征大総督として参戦していました。和宮の心中は、どのようなものであったのでしょう。
1883(明治16)年地図の
永田町有栖川邸(中央)と
熾仁人皇隠居邸(左下)
 

そして江戸が東京と改まった明治2年(1869年)正月11日、結婚以来始めての里帰りのため京都へ向かい明治7年までを京都で過ごすこととなります。この時は京都を永住の地と定め安住しますが、明治5年4月には皇后も東京に移り、その後の天皇の勧めもあり 明治7年7月8日再び東京に戻り、かねてから用意されていた麻布市兵衛町に居を定めることとなります。
 
麻布での生活は歌道、雅楽などの芸道を楽しみ、天皇の近親(明治天皇の伯母にあたる)として厚遇され天皇、皇后、皇太后の和宮邸訪問も再三行われました。
また家茂の未亡人として徳川一門 の親睦にも配慮し家達、天璋院などをしばしば招待したといいます。
やっと平穏な暮らしを手に入れた和宮ですが明治10年8月には脚気をわずらい、侍医の勧めによって箱根塔の沢に湯治に向かい、麻布邸に戻る事は二度と無くその場所で生涯を閉じます。
 
和宮の死後遺骸は遺言により増上寺にある夫家茂の墓と並んで葬られ、法号は「好誉和順貞恭大姉」とされました。
 
蛇足になりますが、麻布市兵衛町の和宮邸と麻布盛岡町の有栖川邸(現有栖川記念公園)は、地理的にはそう遠くはありません。しかしこの盛岡町の敷地が有栖川邸となるのは熾仁人皇が薨去した後に異母弟の威仁親王が住んだ屋敷で、有栖川熾仁親王と静寛院宮の二人が同時期に麻布に住んだという事実はありません。しかし有栖川熾仁親王は1871(明治4)年から1874(明治7)年頃までは現在の芝離宮の場所に、そしてそれ以降は永田町近辺(現在の国会議事堂南側)に邸宅を構え、亡くなる1895(明治28)年まで本邸としていたといわれます。そして、さらに晩年には隠居所を現在の内閣府庁舎あたりに構えており、この隠居所と静寛院宮邸までは1kmほどしかない近距離にありました。このことから歴史には残されていなくても、両者がお忍びで訪れ昔話などを語り合っていれば良いなどと思うのは、私だけではないとおもいます。
 
 
 ◎追記
生前の本人の強い要望で夫家茂の隣に葬られた増上寺の静寛院宮の墓所ですが、1950年代に東京プリンスホテルの敷地として売却が決定し、歴代将軍家墓所とともに静寛院宮墓所も改葬されることとなりました。その際に調査が行われ、結果が「増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体」としてまとめられました。その調査報告によると静寛院宮(和宮)は、
  • 血液型はAかAB
  • 推定身長143.4cm、体重34kg
  • 反っ歯と内股が特徴の小柄な女性
としていますが、遺体には左手首から先が見つからなかったそうです。また銅像や肖像画にも不自然な形で左手首が描かれていないため、り静寛院宮(和宮)は、生前何らかの理由で左手首から先を欠損していたのではないかとの推測もあるようです。

また、この静寛院宮(和宮)の改葬調査が行われたのは皇族関係者として異例なことで、その他皇族の古墳・陵墓などは宮内庁の方針により現在も調査は禁止されているようです。

そして、この改葬の際に静寛院宮(和宮)に棺から烏帽子直垂姿の若い男性の写真乾板が発掘されたそうですが、その後すぐに酸化して画像は消えてしまったようです。この写真の男性が、夫の徳川家茂との説が強いようですが、別説では婚約者だった有栖川熾仁親王ではないかとの意見も存在するようです。





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