幕末期にアメリカ公使館が設置された事から、たびたび歴史に顔を出すこととなる麻布山善福寺ですが、再来日したシーボルトが江戸滞在中に赤埴接遇所からこの麻布山善福寺に設けられたアメリカ公使館に毎日のようにハリスを訪問していたことを以前ご紹介しましたが、あのトロイの木馬の発掘者であるハインリッヒ・シュリーマンもこの麻布山善福寺に短期間滞在していたことが「シュリーマン旅行記 清国・日本」という書籍に記載されています。シーボルト、ハリス、ヒュースケンなどが滞在・訪問した事は比較的よく知られていますが、シュリーマンの麻布山善福寺滞在はほとんど知られていません。よって、今回はその滞在記をご紹介します。
シーボルトの総領事ハリス訪問から4年後の慶応元(1865)年6月24日、シュリーマンは清国経由で日本に寄港、横浜で船を下ります。しかし、当時の江戸は攘夷の風が吹き荒れ、アメリカを除く各国公使なども江戸を退去して横浜などに滞在していたので、江戸市街は外国人にとって非常に危険に満ちたものであったそうです。
そこでシュリーマンは苦労の末にグラバー商会の仲介でアメリカ代理公使ポートマンの招待状を手に入れ、江戸を訪れることとなりました。
1865(慶応1)年6月25日、強雨の中8:45分頃に5人の警備の武士を従えて横浜を馬で出発、茶屋で食事・休憩後、品川浦から御台場をながめつつ 一行は14:00頃善福寺のアメリカ公使館に到着します。そして、雨で濡れた体を温めるため入浴した後、再び警護の武士を従えて愛宕山に登り周囲を展望しました。そして江戸城外周を1周して19時頃、アメリカ領事館に帰着しました。旅行記では善福寺の様子を、
~午後2時頃アメリカ合衆国公使館へ着いた。善福寺という大きな寺でその名は永遠の浄福を意味する。花崗岩の巨大な山門をくぐると、大きな石を埋め込んだ道が広大な前庭横切って大寺院まで続いている。~と紹介し、続けて公使館の様子を、
~建物は二階建てで回廊がぐるりと巡らされている。外壁と内壁はすべて白い紙を貼った引戸障子である。~と書いています。さらにその建物は昼間200人、夜は300人以上の武装した役人により警備され、毎夜合言葉を決めて敵味方を識別しているとの記述があり、ちなみに到着した25日の合言葉は「誰→風」だったそうです。
翌26日は晴天となり、早朝に他国公使館を訪問するため警護武士と共に出立します。済海寺(フランス公使館)※旅行記にはヒュースケン暗殺現場と誤記-長応寺(オランダ公使館)-東善寺(イギリス公使館)と廻って、アメリカ領事館に戻り昼食。
午後からは浅草を訪れ、浅草寺を見た後に境内の見せ物を見物し、独楽の曲芸に驚嘆しています。その後警護の猛反対を押し切って大きな芝居小屋で芝居見物。日本語を理解しないシュリーマンにも芝居の筋は十分に理解できた模様。19:30アメリカ公使館に帰着。その晩の公使館警護武士の合言葉は、 「誰→大」と記しています。
この日の光林寺訪問では、
○6月27日 晴れ
早朝出立
団子坂で盆栽を見学-王子権現見学
有名な茶屋(王子扇屋?)で昼食
再び浅草見物
アメリカ領事館に帰着
領使館警護武士合言葉 「誰→娘」
○6月28日? 29日?
4:30 鐘の音で目を覚まし、善福寺の朝の勤行を見学
7:30 6人の護衛武士を伴い、深川(富岡)八幡見物に出立
永代橋-深川八幡-須崎弁天-両国橋
アメリカ領事館に戻り昼食
午後、赤羽の寺(光林寺)を訪問しヒュースケン、伝吉墓に墓参
~ ヒュースケンは江戸に埋葬された、ただ一人のキリスト教徒であるばかりなく、日本語を正確に読み書きすることができるようになった唯一の外国人であるそしてそれがその死の原因となった。彼があまりにも日本の生活になじんだので、自分たちの統治機構の秘密を洩らすのではないかと恐れたのである。 ~などとあり、ヒュースケンの死因を追求している様子が記されています。そして、これはただの憶測ではなく、江戸で訪問した各国公使館員たちの情報によるものと思われます。 26日に訪問したフランス公使館・済海寺では万延1(1860)年9月、イタリア人警備官が襲撃された事を聞いたであろうし、オランダ公使館・伊皿子長応寺は数年前のシーボルト来日や写真家のベアトが江戸での常宿としていたことから、時事情報が豊富であったと思われ、さらにイギリス公使館東善寺では通訳官「伝吉」刺殺事件、2度にわたる公使館襲撃事件などをシュリーマンは聞き知っていたと考えるのが妥当かと思われます。
旅行記に記された「江戸」の項は6/24~6/29となっていますが、前述したように江戸への到着は25日であることから、29日には横浜に向けて旅立ち、さらにサンフランシスコへと向かう船に乗ったようなので、実質4~5日間の善福寺滞在ではなかったかと想像されます。
さらに5年後の1870年からシュリーマンはトロイアの発掘を開始し、数年後にはトロイの木馬の話で有名なトロイア遺跡を発見することとなります。
西暦 | 年号 | 麻布辺の事象 | 一般事象 |
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1859年 | 安政六年 | 6/27麻布山善福寺にアメリカ公使館が設置。その後英国、仏国、和蘭なども公使館を続けて江戸に設置 | 7/6シーボルト父子長崎に到着 |
1860年 | 万延元年 | 1/7イギリス通訳官伝吉刺殺 9/17フランス公使従僕傷害事件 12/4ヒュースケン暗殺 | 咸臨丸がアメリカに向けて浦賀を出港 ヒュースケン事件により米国を除く各国公使が横浜に退去 |
1861年 | 文久元年 | 5/10~10/15シーボルト父子赤羽接遇所滞在 5/28第一次東禅寺事件(高輪) | 4/12米国南北戦争開戦 11/15皇女和宮御降嫁、江戸清水邸御着 |
1862年 | 文久二年 | 麻布氷川神社例祭で使用される獅子頭が本村町で作製される。 5/29第二次東禅寺事件(高輪) 12/12御殿山英国公使館焼打ち | 8/21生麦事件 4/12アメリカ公使ハリス米国へ帰国 4/23寺田屋騒動 |
1863年 | 文久三年 | 4/13清河八郎が一の橋で暗殺される 4/6麻布山善福寺が攘夷派浪士の襲撃を受け本堂が焼失 7月F.ベアトがスイス使節団の臨時随行員として江戸市中を撮影、麻布も多数撮影する | 5/10馬関戦争 5/12長州五傑英国へ密航 7/2薩英戦争 |
1864年 | 元治元年 | 長州征伐で長州本藩である麻布竜土町の長州萩藩邸(現東京ミッドタウン)、麻布日ヶ窪の長州藩の支藩である長府藩邸(現六本木ヒルズ)が幕府により取り壊される | 禁門の変~第一次長州征伐 |
1865年 | 慶応元年 | 6/25~6/29シュリーマンが麻布山善福寺に滞在 | 7/18英国駐日公使パークス着任 第二次長州征伐 4/3米国南北戦争集結 |
1866年 | 慶応二年 | 米価高騰により麻布、芝、赤坂でも打ちこわし(5/28)。 白金清正公門前に牝ライオンの見世物(1月) | 薩長同盟成立、福沢諭吉、慶応義塾を創設 |
1867年 | 慶応三年 | 薩摩藩三田屋敷幕府軍により焼き討ち | 坂本竜馬暗殺 将軍徳川慶喜が大政奉還 王制復古の大号令 天皇による新政府樹立の宣言 『ええじゃないか』 大流行 |
1868年 | 明治元年 | 勝、西郷会見(3/14、3/15) | 鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争の始まり) 明治維新、天皇、東京に到着(10/13) スエズ運河開通(1869年) |
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