2013年5月27日月曜日

鼬(いたち)坂の島崎藤村


島崎藤村宅跡と鼬坂
1916(大正5)年7月8日、55日間の船旅を経て三年ぶりにパリから帰った島崎藤村は芝区二本榎西町3の留守宅に入りました。しかし帰国してみると次兄夫妻に預けてあった2児とその留守宅の窮状は目も当てられぬほどだったといいます。
藤村はまず次兄夫妻を下谷の根津宮永町に移し、小諸で揮毫領布会を催して金策に走り、早稲田、慶応の講師となって近代フランス文学を講じ、また「故国にかえりて」、「海へ」、童話77編からなる「幼きものに」を刊行、外遊の負債と次兄の儀侠的行動から起きた経済的破綻の改善に努めました。

1917(大正6)年6月1日、藤村は芝区西久保桜川町2番地の高等下宿「風流館」に移ります。ここで藤村は奥の離れ二間を借りてパリのマンション生活を偲びつつ「海へ」の続編と「桜の実の熟する時」を執筆しました。そして大正7年10月27日藤村は、麻布区飯倉片町33に再び転居します。

ここは、天文台近くに住んでいたパリでの生活を偲んで、東京天文台の傍の住居を「風流館」若林又市などに依頼して、探し当ててもらった住まいであった。鼬坂を下りかけたあたりにあった貸家で、藤村いわく、
島崎藤村碑

「どこへ用達に出掛けるにも坂を上がつたり下がつたりしなければならばい」谷間のような所であった。さらに「郵便局へ2町。湯屋へ2町。行きつけの床屋へも56町ある」

と書き残しています。また後に大作の「夜明け前」、地名を冠した「飯倉だより」、童話集「ふるさと おさなものがたり」、「大東京繁盛記」の中で「飯倉付近」を書いてこの地への愛着を披露しました。そしてこの地で藤村は47歳から65歳の18年間を過ごし、生涯の中で最も長く住むことになる家であったそうです。

表題の鼬坂とは「近代沿革図集」によると植木坂鼠(ねずみ)坂の別名。または鼠坂の坂上部分ともいわれています。これは江戸時代から呼ばれていた名で、池波正太郎の小説鬼平犯科帳の「麻布ねずみ坂(三)」にも、ねずみ坂として登場する。





島崎藤村碑 碑文













植木坂




















鼠坂


















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