2013年5月31日金曜日

圓生の見た麻布

終戦で満州から引き上げてきた六代目三遊亭圓生は、すぐさま落語界に復帰して神田「立花」で独宴会を催しました。ですが客の入りはあまりぱっとせず、その後しばらく独宴会を中止していたそうです。そして昭和28(1953)年12月、麻布十番の「十番倶楽部」で催した独宴会が復帰後初めて大盛況となり、その後の独宴会の布石となりました。この記念すべき独宴会の出し物は「三十石」「文七元結」「百川」の三題であったそうです。
大正時代の麻布十番商店街
稲垣利吉「十番わがふるさと」

圓生は戦前から麻布の寄席に出演していた様で、現在の「魚可津」さんあたりにあった「福槌亭」は、もと学校?だった建物を使ったひどく頑丈な2階席で、古くて掃除のゆき届いていない薄汚れた席であったといい、現十番稲荷神社の正面あたりにあった「十番倶楽部」は圓生が三語桜協会の頃よく出演し繁盛していた席で、1階が酒屋2階が寄席で、席主の酒屋(十番わがふるさとによると屋号は「鶴屋酒店」)から、当時発売していた「新進」と言う名の合成酒の宣伝を噺のまくらの中に取り入れることを頼まれたと著書に書き残しています。
一の橋の「一ノ亭」はもと講釈師の神田山陽が席主で元は講釈の席でしたが、落語色物席になった時に、圓生は席主の神田山陽と共に麻布山元町の花柳界に挨拶回りをしたといわれています。
六本木の「第二金沢」は京橋金沢亭の席主が経営した支店で、だだっぴろい席であったそうです。普段は客もまばらな端席(はせき)でしたが、関東大震災で残ったため、震災直後は満員になったそうです。
その他にも、圓生は笄町の「麻布演芸館」、森元町「高砂」、新広尾町「広尾亭」などに出演していました。

また麻布近辺では、白金志田町の「白金演芸館」、愛宕下「恵知十」「琴平亭」、芝宇田川町「川桝亭(三光亭)」、浜松町「小金井亭」、金杉橋「七福亭」、三田「七大黒(春日亭)」、伊皿子「伊皿子亭」などにも出演していました。しかし大部分の寄席はあまり客の入りが良くない端席(はせき)であったといい、圓生の著書「江戸散歩」の中で、麻布は屋敷ばかりで寂しい道が多く、暗くなると行くのが嫌だったと書いています。また同書で噺のまくらに使ったと思われる言い回しをいくつか披露しているので、御紹介します。


「弔いを山谷と聞いて親父ゆき」「弔いを麻布と聞いて人だのみ」

・下町の住人にとっては、麻布は大変に遠い所であった様に思えたので面倒くさいため人頼みにした。
と言う表向きの解釈の他に、山谷は吉原に近いため親父は喜んで出かけて行った。という説もある。




「繁盛さ狸の穴に人が住み」

・??



「麻布の祭りを本所で見る」

・”手も足も出ない”の意味。








また、「麻布で黄が知れぬ」(むかし、むかし4の55を参照)の亜流では、

「一本は松だが6本きが知れず」

「から木だか知れず麻布の六本木」

「火事は麻布で木が知れぬ」

「ねっから麻布で気が知れぬ」

「火事は麻布で火が知れぬ」なんてのもあります。

そろそろ、おあとが、よろしいようで..........。











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