2013年5月5日日曜日

麻布七不思議-狸橋の狸そば


狸橋と碑
天現寺橋と五の橋の間に「狸橋」という小さな橋を見つけました。「狸橋」という名の由来は、昔、橋の南西に蕎麦屋があったそうで、子供を背負い手拭いをかぶったおかみさんに蕎麦を売り、そのお金を翌朝確かめると”木の葉”になっていたからとも、江戸城中で討たれた狸の塚があったからともいわれています。 
麻布七不思議の一つに数えられることもある狸穴の狸そば」の伝説によると、

狸穴下に「作兵衛蕎麦」という色の黒い純粋の生蕎麦がうまい蕎麦屋があったそうです。時の食通にも好評だったが、いつのまにか廃業したといいます。名の起こりは、徳川の大奥を荒らしまわった狸穴の古狸が、内田正九郎という侍により討ち取られその霊を蕎麦屋の作兵衛が奉祀したことから始まったと伝わり、狸を葬った狸塚は広尾にあったともいわれています。この狸橋を渡ったあたりは江戸期「狸蕎麦」という地名で呼ばれていましたので、資料はないものの狸穴の古狸はこのあたりに葬られたものかと想像します。
白金分水古川合流口
また 明治期までこの橋のそばに蕎麦屋があり、その地所を福沢諭吉が購入して別荘にしていました。またこの蕎麦屋は水車営業権を持っていたので、福沢はその権利も買い取って米搗き水車として営業し、塾生の経費のたしにしたそうです。しかし、この蕎麦屋が里俗の地名である「狸蕎麦」の由来となる蕎麦屋かどうかはわかりません。そしてこの狸蕎麦水車が動力としていた水流は江戸期に作られた三田用水の分水で「白金分水」と呼ばれていました。この白金分水はそもそも麻布御殿への給水を目的として作られた分水で、おそらくこの水車のあたりから懸樋か水道橋のようなもので古川を渡り、対岸の麻布御殿まで通水していたものと考えられています。

現在の狸橋は昼間でも人通りが少なく、おそらく地元住民しか通らない橋となっていますが、江戸期の天現寺橋は古川ではなく笄川(竜川)にかかる橋であったため、目黒・白金方面に抜ける橋は四の橋(相模殿橋)の上流には狸橋しかなかったようです。おそらくに日中は目黒不動参詣などにより、狸橋にかなりの通行があったものと思われますが、夜は極めて寂しい場所であったことが推測されます。そして、白金自然教育園が明治期には「狸山」と呼ばれていたことなどから、このあたりは狐狸との因縁の深い場所であったものと思われます。



近代沿革図集-狸山
里俗の称で文献がない。古老の話では明治坂上の左側丘陵をさすという。また他の説に、白金台五丁目の国立自然教育園一帯をさしたともいう。明治のころ、海軍火薬庫があって、衛兵が狸にばかされたことがあったと伝える。








狸橋碑文
★狸橋 由来碑-碑文 
 狸橋の由来
むかし橋の西南にそば屋があって
子供を背負い手拭をかぶったおかみさ
んにそばを売ると、そのお金が、翌朝
木の葉になったといいます。
麻布七不思議の一つで、狸そばと呼ん
だのが、地名から橋の名になりました。
ほかに、江戸城中で討たれた狸の塚が
あったからともいっています。

昭和53年 港区





★近代沿革図集-狸蕎麦

麻布新広尾町三丁目、狸橋近くで麻布七不思議の一つだという。のちに福沢家の別荘となった梅屋敷にそばやがあった。子供を背負い手ぬぐいをかむったおかみさんに、そばを売った代金が、翌朝みると木の葉だった。誰いうとなく狸蕎麦と呼び、評判だった。そばやの屋号が里俗地名となったものか。
なお麻布の狸蕎麦には<狸穴下の蕎麦屋(江戸の口碑と伝説)>(名代のそばやで、討ち取られた古狸の霊を屋敷内に祭って、その名がついた。この狸を葬った狸塚は広尾にあった)があり、別説には<古川の狸蕎麦>がある。

狸橋
麻布新広尾町三丁目38~162番地間 長さ16.4m 幅3.6m










江戸期の「狸蕎麦」辺









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★追記
自然教育園スタッフBlogによると昨年2012年には子狸が二頭生れ、四頭の狸の生存が確認されているそうです。また、2013(平成二十五)年3/18、この狸橋からもさほど遠くない恵比寿駅付近で野生の狸が捕獲されました。

論文-自然教育園におけるホンドタヌキとハクビシンの自動撮影記録と糞の分析