名所江戸百景 広尾ふる川 |
前回お伝えした狸橋の下流にある四の橋(相模殿橋)近辺にも狐狸伝説があり、狐にちなむ伝説「狐しるこ」が残されいます。
むかし、四の橋(相模殿橋)のそばで、尾張屋藤兵衛とい」うものがしるこ屋を商っていました。そこに時々狐が化けて買いに来たので、評判となり大いに繁盛したといいます。尾張屋はそれを元手に京橋三十間堀に移転したそうです。
◎麻布区史
相模殿橋(今の四の橋)の傍で尾張屋藤兵衛と云ふ者が商つてゐたが、そこへ時々狐が化けて買ひに来たのでそれが評判となり、大いに繁盛したとい云ふ、尾張屋は後に京橋三十間堀へ移転した。
またさらに現在の白金商店街入り口付近には江戸期から鰻の名店「狐鰻」があり、江戸~明治期の鰻の名店で名士、著名人が多く利用したようす。その様子は安藤広重の「名所江戸百景広尾ふる川」にも描かれています。
現在も東麻布にある鰻の名店「野田岩」もこの狐鰻で修行したため店の看板に「狐鰻」の文字が書き込まれています。 このいわれは、現在の初代野田岩の店主・岩次郎が四之橋狐鰻で修行した事と、鰻の種類が狐鰻と呼ばれる顔のとがった上質の鰻を取り扱っているための二つの意味から、看板に狐鰻の文字を掲載したと現在の店主が述べているようです。
そして、木戸孝允日記には、
1875年(明治8年)2月26日
其より井上(馨)・伊藤(博文)に狐鰻店にて会し
野田岩看板 との記述が見え、明治時代の料亭政治の一端が顔をのぞかせています。
いづれにせよ、このあたりから広尾辺は江戸郊外としての静寂を保っており、他にも七不思議の一つ「広尾の送り囃子」や近隣の自然教育園が明治期には「狸山」と呼ばれていたと近代沿革図集に記述があることなどから、狐狸との因縁の深い場所であったものと思われます。
現在の四の橋白金商店街 この伝説が残された場所(現在の四の橋商店街辺)は麻布域から古川を挟んで対岸となる白金にありますが、「新堀向こう」とよばれていた農耕地で三田亀塚代地二カ所と西久保天徳寺領屋敷を併せて「麻布田島町」が江戸期成立します。もともと田圃であったところに忽然と町域ができたのでまるで田圃の中にある「島」であるかのような情景から田島とし、さらに本来は代官支配である農耕地ですが、繁栄を願って何とか江戸市中に編入されようと「麻布の町域」として成立したようです。このように古川の対岸白金がわにあった麻布の町域は他にも江戸期には麻布永松町(のちの白金志田町)、そして明治期からは麻布新広尾町などがあります。
田島町が麻布を冠したのは1911(明治44)年年までですが、1947(昭和22)年港区が成立すると再び麻布を冠称します。そして昭和44年の新住居表示により白金1,3,5丁目の一部となり、麻布域を離れました。
江戸期の麻布田嶋町 ★文政町方書上-麻布田島(嶋)町
町方起立の儀は、古来一円に伊奈半左衛門様御代官所阿左布村のうちにて、小名新堀向と相唱え、野田にて罷りあり候ところ、元禄十三辰年七月武家十人一同に拝領致され候て町屋に仰せつけられ、なおまた、同月白金御殿番人八人、宝永三戌年中芝増上寺御霊屋御掃除頭両人へ下し置かれ、同五子年六月三日武家方十八人、同年八月十三日武家方十六人、同月十五日同十七人、同丑七月同六人、享保二酉年三月御庭口役六人、都合八十三人おいおい拝領致され、その後、年代相い知れず三田のうち亀塚と申すところにより同所代地二か所当所にて相渡り、その外西久保天徳寺領屋敷三か所とも合わせて元禄の頃より一統田嶋町と相唱え候えども、右町名の訳相知れ申さず。~
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