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寛政の鯨<浜離宮・天王洲>
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捕獲された鯨絵 |
約200年前の寛政十(1798)年五月一日、前の晩からの暴風雨によって品川沖に一頭の鯨が迷い込んで来ました。近隣の漁師たちは力を合わせてその鯨を天王洲に追い込み、浅瀬で動けなくなったところで生け捕りにします。
捕まえてみると鯨は長さ16メ-トル、高さ2メ-トルの「セミ鯨」であり、その大きさに皆驚きました。そして品川で生きた鯨が取れたという知らせが江戸中に伝わると大勢の見物人が押しかけ、300メ-トルほど沖の鯨を一目見ようと漁師たちの船を借り上げて見物したので、漁師たちの懐には思わぬ大金が入ったといいます。
その後、評判を聞きつけた代官大貫次左衛門の手代が検分に来て、将軍家斉が浜御殿で上覧することが申し渡されます。五月三日、漁師たちは鯨に縄をかけて浜御殿(現港区・浜離宮)沖まで船で引いていき、将軍に供覧しました。
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利田神社 |
家斉はたいそう喜び、漁師達に「猟師町元浦」と書いた旗まで贈って感謝を表したそうです。
そしてそのときに詠まれたのが下記の歌です。
うちよする
浪は御浜の
おにはぞと
くじらは潮を
ふくはうち海
その後再び品川沖に戻された鯨は「将軍上覧の鯨」として前にも増して人気となりました。しかしその後日がたつにつれて鯨は弱って、ついに死んでしまいました。そこで、漁師たちは鯨を解体して油をとり、骨は縁台などにしたといいます。そして余った骨を目黒川河口付近の須崎弁天(現在の利田神社)境内に埋め、その上に碑を建てました。この碑は「鯨塚」といわれ、現在も大切に保存されています。この鯨塚は三角形の自然石で設置される際に当時の高名な俳人・谷素外が詠んだ、
江戸に鳴る
冥加やたかし なつ鯨
と記されていましたが残念ながら現在塚石の表面は剥落しており、判読不能です。
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鯨塚 |
この寛政の鯨騒動は「享保の象」「文化のらくだ」と共に江戸動物三大事件として語り継がれています。また当時、鯨フィ-バ-にあやかって、鯨手ぬぐい、鯨にちなんだ食べ物も売り出され、また、滝沢馬琴が「鯨魚尺品革羽織」、十辺舎一九が「大鯨豊年貢」なども表しました。そして、
品川の沖にとまりしせみ鯨
みんみんみんと飛んでくるなり
という狂歌まで流行ったといいます。
さらに、嘉永四(1851)年4月11日にも鯨が現れ、御林町と呼ばれていた鮫洲の海岸に一頭の鯨が漂ってきました。これを見つけた御林町の漁師達は、全員総出で鯨を海岸に引き上げ、そのことを村役人がら代官所に届け出ました。
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塚解説板 |
さっそく代官所の役人が来て調査し規則通りに入札にかけ、大井町の吉太郎という者が落札したそうです。これをさらに深川の越前屋茂兵衛が買い受けて、浅草で見せ物にします。しかし、しばらくすると腐り始めたので、脂を絞って売りに出し、残った骨を鮫洲八幡神社に埋めて塚を作り供養したといいます。
しかしこの塚は残っておらず、また、獲れたのも鯨ではなく、鮫だったとの説もあって、どちらが本当なのか今となってはわかりません。その他にも品川沖には文政五(1822)年にも鯨が現れたといわれますが、寛政、嘉永のくじら捕獲時ほど資料も文献も残されていません。
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須崎弁天と天王洲 |
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浜御殿 |
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須崎・天王洲から浜御殿 |
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鯨碑 |
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利田新地解説 |
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鯨塚銘板 |
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塚横の公園に設置されたクジラのオブジェ |
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入り江として残された旧目黒川河口(現・八山通り) |
より大きな地図で 江戸期の鯨捕獲 を表示