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尺八殺人
天保6年(1835年)7月27日、麻布桜田町に住む喜八は嫁の「あき」の実家である品川
天妙国寺前の煙草屋「近江屋」に夫婦で訪れました。
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別格山鳳凰山 天妙国寺 |
夫婦で麻布から品川まで籠を連ねてやってきたその日の用件は舅の藤兵衛に借金を申し込むためでした。夫婦は近江屋に着くと 挨拶もそぞろに早速借金の話しを切り出します。しかし、舅の藤兵衛はあまり話も聞かぬうちに乱暴に申し出を断ってしまったそうです。
わざわざ夫婦そろって頭を下げているのに邪険に扱われ頭にきた喜八は、たまたま傍にあった尺八で舅である藤兵衛の頭を強打し、 藤兵衛はその場で気絶してしまいます。
騒ぎを聞きつけた近所の者たちが駆けつけ、喜八を取り押さえ近くの自身番へ連れて行く一方、藤兵衛の手当てをしましたが、 駆けつけた医者も傷の深さにさじを投げてしまったそうです。そして3日後には藤兵衛はとうとう亡くなってしまいます。
当然、舅を殺してしまった 喜八は過ちからとはいえ殺人犯となりますが、嫁の「あき」は親殺しの妻として実家に戻され悲劇は一層拡大してしまい、不憫と思った親類たちは散々相談した結果、「内済」で済ます事に決定します。
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補蛇落山 海晏寺 |
婿と嫁は麻布の家に返し、藤兵衛の遺体は「病死」として 菩提所の南品川海晏寺へ葬る事にすることで早速海晏寺に連絡しました。しかし、事件の噂を聞きつけていた海晏寺は埋葬の許可を出さず、 月末になっても葬式すら行えない状態になってしまいます。再三の親族からの哀願にもかかわらず、この隠蔽に荷担すること恐れた海晏寺の住職は寺社奉行に訴え、その上で埋葬するのが良いと いいつづけたといいます。
しかし、残念なことにこの話の結末は記載されていません。
この事件が起こった場所は私の住まいからほど近いところにある事がわかり、天妙国寺も海晏寺も現存します。 さらに驚いたことに事件があった当の煙草屋「近江屋」も現存していることが分かりました。
そして調べてみると「近江屋」は品川区内のス-パ-マーケットとして現存していることがわかりました。しかし、この店のご先祖様が身内の殺人という窮地をどのようにして回避できたのかを聞いてみることは、未だに出来ていません。
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妙国寺門前 |
ちなみに、天保6年(1835年)7月27日この事件と同じ日に、にやはり尺八で人を殴って殺害してしまう事件が目白台でも起きています。詳細は麻布に縁が無いので省略しますが この当時の尺八は武器としても役立っていたのでしょうか?そうだとすると、虚無僧が尺八を持っているのは、護身用の武器としても活用したものとも考えられます。
○2010年7月27日追記
嫁の「あき」の実家があった近所の天妙国寺は当時「妙国寺」と呼ばれた古刹で、墓所には麻布と縁が深い昭和初期のアイドル歌手「音丸」こと永井満津子が眠っています。
音丸は麻布十番商店街の下駄屋お内儀でした。しかし当時としては珍しい既婚者・商店のお内儀という立場から流行歌手としてデビューし、1935(昭和10)年には「船頭可愛や」が大ヒットします当時、客席から舞台の音丸に「下駄屋の姉御!」とかけ声が掛かると、「よくご存じ!」っと切り返す 肝の太さも持ち合わせていたという逸話が残されているそうです。
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十番稲荷神社 音丸寄進の狛犬 |
音丸の下駄屋は現在の十番郵便局付近にあり同時期、現在の十番会館あたりには喜劇王エノケンこと榎本健一の実家「武蔵野せんべい」もありました。
これらのことから十番稲荷神社の現在も残されている狛犬は音丸の寄進で、立て替え前の 石華表(鳥居)はエノケンの寄進によるものであった。
鳥居は残念ながら現存しませんが、現在の鳥居の裏面にはエノケン寄進を記念した銅板が埋め込まれており、もう一方の足には同じく前鳥居の寄進者であった 市川産業(後のクラウンガスライター)創業者で十番に本社を構えていた市川要吉の銅板が埋め込まれています。
ちなみにクラウンガスライター社は、1977年・1978年シーズンは福岡野球のメインスポンサーとなり、クラウンライターライオンズ(略称・クラウン)としてプロ野球界に参戦し現在の 西武ライオンズの礎を築きます。
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十番稲荷神社 音丸寄進の狛犬 |
また天妙国寺墓所には落語、講談で有名な元有馬藩士「お祭り佐七」こと飯島佐七郎の墓があり、その他歌舞伎「与話情浮名横櫛」の主人公「斬られ与三郎」と「お富」、桃中軒雲右衛門、伊藤一刀斎などの墓があり、当時から名刹であった寺の勢いが偲ばれます。
★別格山鳳凰山 天妙国寺
住所:東京都品川区南品川2-8-23
宗派:顕本法華宗
創立:弘安8(1285)年
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十番稲荷神社 華表銅板
市川要吉 |
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十番稲荷神社 華表銅板
榎本健一 |