振袖火事は本郷丸山本妙寺施餓鬼の法会の時、形見の振り袖を焼きましたが、その火が強風に煽られて本堂の経文や障子などに燃え移り、江戸期で最大の大火となったといわれます。その振り袖のいきさつは.....、
麻布百姓町(桜田町)の大店質屋・遠州屋彦右衛門の娘[梅野(うめの)またはお染め]は、上野の花見で寺小姓を見初め、寺小姓が着ていた紫縮緬に菊を染めた振り袖を作って、夫婦遊びをします。しかし、大店の娘と寺小姓では身分が違い、かなわぬ恋の恋煩いの末に梅野は、亡くなってしまいます。
寛永江戸全図-寛永十九(1642)年 振袖火事15年前の麻布中央部 |
明暦三(1657)年本郷の本妙寺から出火、一月十八日から二十日にかけて江戸の大半を焼きましが、火元は本妙寺単独ではなく小石川伝通院表門下、麹町5丁目などの複合火災であるとの説が有力です。
焼失武家屋敷1200、寺社300、町屋120町江戸城も西の丸を除き本丸、二の丸、三の丸、天守閣を焼失。死者108,000名の大火事。明暦の大火・丸山火事とも呼ばれ、江戸市中の六割が焼失し、死者は十万人を超えるともいわれ、江戸三大火の筆頭とも、世界三大大火(ローマ大火・ロンドン大火)の一つともいわれます。そして、関東大震災と東京大空襲を除く日本の有史以来最大の火災です。
また、この火事のあとにそれまでは千住大橋だけであった隅田川に両国橋・永代橋などの橋が架けられ、川向こうの深川などが発展することとなります。そしてこの火事を期に江戸は都市改造を経て「大江戸」へと大きく変貌を遂げて行きます。
「麻布区史」によるとこの火事による麻布域の被害は、
~幸いにもこの劫火は我が麻布には及ばなかったらしい~(中略)~これは溜池の湖沼と、芝愛宕の林叢とが自然の防火壁を為したる為であるが、一面には又当時我が麻布の地が類焼を免れ得ざる程の市街を形成していなかったからであらう。~と記して、閑散とした農地で郊外の色あいが濃かった麻布がそれゆえに焼失を免れたとしています。
しかし、この火事直後から増上寺隠居所の移転で幕命により、麻布氷川神社が元地を奪われて現在の狭小な社地へ遷座を余儀なくされ、また、仙台藩邸の移転をはじめとする武家屋敷の流入が始まります。さらにこの火事による難民救済事業の一環として「古川の改修工事」が始まります。
これらのことから、麻布もそれまでの農村を中心とした江戸郊外地域から、諸大名の中屋敷・下屋敷、また外様大名の上屋敷が中央部移転したことによる市街化が始まります。
このように振袖火事による直接の被害はなかった麻布も、この火事から二十六年後には「お七火事(天和の大火)」では大きな被害を受け、さらに時代が下った明和九年(1772年)2月29日の目黒行人坂を火元とする大火(行人坂の大火・死傷者9,000人)の時は、あ組の活躍もむなしく、一本松なども焼る大被害を出したといわれています。
行人坂の大火の後、資材不足に商人がつけこみ物価が10倍に跳ね上がり、世直しのため「安永」と改元しましたが、庶民から狂歌で皮肉られることになります。
「年号は安く永し(安永)と変われども、諸色高直(しょしきこうじき)、いまにめいわく(明和九)」
稲垣利吉氏が調べた所、麻布消防署の記録によると麻布は、寛永18年(1641年)から文久3年(1862年)の220年間に45回大火に遭遇しているそうです。その内、麻布が火元となる火事を以下に。
- 享保6年(1721年)善福寺門前より出火、愛宕下まで延焼。
- 宝暦12年(1762年)日ヶ窪より出火、赤羽橋まで延焼。
- 明和8年(1771年)鳥居坂上、戸川内膳邸より出火、永坂、十番、古川より高輪まで延焼。
- 寛政5年(1793年)藪下より出火、白金遊行寺まで延焼。
- 同6年 (1794年)芋洗坂より出火、日ヶ窪、一本松、雑色より古川町まで延焼。
- 享和2年(1803年)1月1日永坂より出火、十番、雑色、古川まで延焼。
- 同年同月 12日坂下町より出火、雑色町全焼。
- 文化7年(1810年)宮下町より出火、久保町辺まで延焼。
★関連項目
- 隣接していた老中阿部忠秋邸からの出火説
- 老中松平信綱(知恵伊豆)による江戸再開発説
この振袖火事の火元は本郷丸山本妙寺とされていますが、近年オーストリアの博物館でこの火事に関係のあるものが見つかったそうです。 それは150cmほどの座像で台座も座布団もない状態で展示されていたそうで、博物館には由緒来歴は全く伝わっていませんでした。そして、偶然来館していた江戸東京博物館の遣欧調査団によりその座像が調査されますが、やはり来歴をつかむものは見つからなかったそうです。しかし調査団が知己のあるドイツ人研究者に連絡を取ると、座像底部に文字があることが解り、早速調べられました。 座像下部の文言にはこの座像が振袖火事の火元とされている本妙寺の開山・智存院日慶の座像であることが記されており、元和六(1620)年二月二十四日に檀家で旗本寄合の久世才兵衛定勝により造立され、さらに寛文十二(1672)年六月十四日には時の住職六世・感應院日遵により彩色と座像を安置するための宮殿が造営されました。 この座像の彩色が施され、宮殿が建立されたのは 振袖火事が起こってから15年ほど後のこととなりますが、江戸を焼き尽くすほどの大火の火元となった本妙寺が、わずか15年でその罪を許され、仏像安置のための宮殿を造営されるのは可能なことだったのでしょうか? 振袖火事の火元説には、この本妙寺のほか、
智存院日慶座像
などもありますが、真相は不明です。
座像下部の文言