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中川屋嘉兵衛<白金>
牛肉販売の元祖中川屋嘉兵衛は三河の人で、幕末に異人相手の商売を志して英語を修め、慶応元年に横浜に出ました。
最初は横浜で塵芥処理の人夫などをしていたが、アメリカ人医師のシモンズに認められて、その雇人となりました。シモンズとの交流の中で、嘉兵衛は「牛乳」の需要に目をつけて横浜の洲干弁天付近で搾乳業を始め、壜詰の上シモンズを通して外国人に供給します。
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明治2年の白金・高輪辺 |
ところが搾乳業がようやく軌道に乗りかけたとき、不幸にも火災のため搾乳場と乳牛2頭を焼失してしまいました。火災の報を聞いたシモンズは、馬で駆けつけ、焼死した乳牛をみて、「中川は牛の丸焼きをつくった」と冗談をとばして、悲嘆に暮れる彼を元気づけます。
嘉兵衛はこの災厄に屈せず、北方村の天沼に移り、通称トワンテ山(イギリス狙撃兵第21連隊が駐屯していたために、ついた名)のイギリス軍の食料用達商となり、野菜果実を納入しながらイギリス兵と懇意になってパンの製造を伝授され、パン製造にも乗り出しました。そして兵士達と交流している内に牛肉の美味と栄養価を知り、これの販売に乗り出しました。
慶応二年(1866年)、嘉兵衛は小港屠牛場の牛肉を販売し始め、翌年三年には江戸荏原郡白金村(現在の品川区上大崎一丁目辺))で支店も開業しました。支店の開店にあたって、嘉兵衛は横浜から牛肉を運ぶより江戸に屠牛場を設けたほうが便利であると考え、土地を物色しましたが旧弊人の多い江戸では誰も土地を貸そうとしなかったそうです。しかし、やっと白金村の堀越藤吉という名主が、畑の一部を貸与してくれたので屠牛場と牛肉販売店を作り、江戸における牛肉販売が確立します。
この白金村の名主、堀越藤吉はその後に嘉兵衛が製氷業に転ずるさい、公使館の肉納人の株を惜しんであとを引き継がぬかと相談したところ喜んで引き継ぎ、名義人「中川」のまま営業して後に牛肉販売だけでなく、牛鍋屋も開業して、東京で牛鍋屋の元祖となる「中川」の経営者となりました。幕末から明治初期に有名だった牛鍋屋は三河屋久兵衛が外神田に開店した「三河屋」、四谷の老舗ももんじ屋「三河屋」(神田三河屋とは無関係)、そして芝露月町のこの中川が有名でした。これらの店は店先に「商家高旗」と呼ばれる旗をかかげており、三河屋の旗には「Mikawaya」、中川の旗は「御養生牛肉」と書かれていたそうです。
この牛鍋屋中川を経営した堀越藤吉は嘉兵衛の祖父という説もあります。また嘉兵衛が製氷業に転ずる際に指導を受けたのはジェームス・カーティス・ヘボンとされています。そして彼が函館五稜郭の外壕でつくった氷は後に内国勧業博覧会に出品して賞牌を受けます。その賞牌の表面に龍の紋章を附したことから嘉兵衛の氷は「龍紋氷」と呼ばれ、函館名産に成長します。
余談ですが、先見の明がある嘉兵衛は慶応三年十月版の「万国新聞紙」第7集の広告に、
パン、ビスケット、ホットル
此品私店に御座候。御求め願い奉り候
横浜元町一丁目、中川屋嘉兵衛
と掲載しており、パン製造の他に、ビスケットなども製造していた事が知れます。
このパン製造はイギリス公使館が設置されていた高輪東禅寺の近傍であったとされていますが、正確な場所を特定する資料を見つけることは出来ませんでした。また白金村の屠牛場についても現在の品川区上大崎一丁目付近としかわからず、場所を特定することは出来ませんでした。