明治に入っても麻布を含む港区域での災害は続きます。幕末に外国からもたらされたコレラが度々猛威をふるいますが、この時に特効薬として愛飲されたのがラムネであったそうで、明治34(1901)年創立された麻布宮村町のラムネ製造会社「山水舎」などもこのコレラの猛威と無関係ではないのかもしれません。○関東大震災
江戸以降港区域の災害 西 暦 年 号 事 象 1879年 明治12年 6月東京でコレラ大流行、全国の死亡者数 105, 786人。 1880年 明治13年 10/4暴風雨で東京一帯が家屋破損。芝区で家屋全壊92棟半壊4棟、麻布区で家屋全壊26棟、赤坂区で家屋全壊20棟・半壊1棟。各区内で死傷者 1882年 明治15年 5/29東京市でコレラ患者発生、秋にかけて大流行。全国で死者33, 784人 1884年 明治17年 ドイツ人の細菌学者であるR. コッホによってコレラの病原菌が発見される。 1886年 明治19年 コレラ大流行、全国の死者数108, 405人。 1890年 明治23年 コレラ大流行、死者35, 277人。 1894年 明治27年 6/20安政地震以来の強震で明治期最大の地震が発生。芝区で家屋全・半壊345戸煙突倒壊18戸死者8名、赤坂区家屋土蔵破損165戸煙突破損87戸死者18名、麻布区被害不明 1895年 明治28年 1/18強震により芝区家屋破損112戸死者2名、赤坂区家屋破損144戸死者3名、麻布区被害不明。コレラ大流行、死者40, 154人。 1897年 明治30年 9/9東京で暴風雨芝区で死傷者3名、家屋全壊4戸・半壊24戸工場全壊4・屋根破損665・神社寺院小学校なども被害。麻布、赤坂区も被害有り。コッホに師事した北里柴三郎によってコレラの血清療法が発見され、コレラによる死者が減少。 1899年 明治32年 10/5~10/7にかけて暴風雨。芝区全壊4戸、半壊92戸、床上浸水200戸、石垣破損236、電柱、樹木倒壊、電線切断多数。赤坂区、麻布区も被害。 1906年 明治39年 2/19麻布谷町で火災が発生し数百戸が焼失。8/24暴風雨により赤坂区で浸水500戸 1907年 明治40年 暴風雨により下水が氾濫し白金三光町、老増町、志田町、金杉浜町などで床下浸水294戸 1918年 大正07年 12月頃からスペイン風邪が大流行。済生会中央病院では重体患者で満床し死者が続出。各所の焼き場が遅延する。
そして大正に入ると関東大震災が麻布辺も襲います。
大正12年(1923年)9月1日朝の大地震による東京の被害は、世界でも類をみない規模のものでし」た。これは地震そのものによる被害よりも、その時の火災による被害の方がはるかに大きかった事によります。市内163ヵ所の火元から発した火災の内79ヵ所は消し止めたが、残り84ヵ所から類焼して東京の大半を焼き、150万人の被災者と9万1千人の死者、52億円の損害を出して3日午前10時にようやく鎮火します。
「麻布区の被害はほとんど無かった」といわれているのは火災の類焼をを免れたためでしたが、建物の被害は、全壊721・半壊954・破損6309に上ったそうです。これは麻布が久しく火災をまぬがれて、古い家屋が多かったためと思われ、圧死者の他、重軽傷者も多く出しています。
しかしそれらの被害も他所に比べると著しく少ないとおもわれ、その結果、被害が少なかった十番商店街では喜劇王といわれ十番商店街に実家(現在の十番会館付近にあった「武蔵野せんべい」)があったエノケンこと榎本健一などにより被災した浅草芸人などに炊き出しが行われ、また麹町で自宅が倒壊した岡本綺堂が宮村町に仮寓し、やはり震災により被災した明治座が麻布十番の末広座を一時的に明治座として行った左団次公演などの脚本を執筆しました。この公演は大反響を呼び、現在のグルメシティ麻布店の場所にあった明治座から一の橋まで入場券を買う行列が出来たと伝わります。また、下町の繁華街が壊滅的な打撃を受けたことにより被害が少なかった山の手の麻布十番や神楽坂などは空前の賑わいを見せ、十番商店街では本通りに毎晩路店が出店し大勢の人で賑わったそうです。
→震災前の十番商店街(「十番わがふるさと」より)
区名 焼失戸数 % 罹災人口 % 芝 21,546戸 42% 94,611名 45% 赤坂 2,365戸 15% 10,655名 15% 麻布 15戸 - 60名 -