神主は悪い考えの人もあるものだと思い、その呪いの紙に、
目を書いて呪いはゞ鼻の穴二つ 耳でなければ聴くこともなし
と書いて貼り付けました。すると翌朝、今度は耳を書き足した呪いの紙が打ち付けてあったそうです。そこでまた、
目を耳にかえすがえすも打つ釘は つんぼうほども なを きかぬなり
と筆太に書いて貼り付けておきました。すると二、三日後に今度はわら人形が五寸釘で御神木に打ち付けてありました。そこで神主は再び、
稲荷山きかぬ祈りに打つ釘は 糠にゆかりのわらの人形
と書いて貼り付けたので、呪いの紙を書いた者もさすがに根負けして、以降は何もなかったといいます。
※ この話は麻布のある稲荷としていますが、もしかしたら「一本松」や末広稲荷のことかもしれません。
ちなみに、一本松も別名「呪いの松」とも呼ばれていて、江戸初期までは氷川神社のご神木
だったそうです。
◆201509追記
この話は「耳袋」に「狂歌滑稽のこと」として語られている話ですが、ここで「のあるお稲荷さんの宮司」としている人物は、「狂名もとの木阿彌と名乘て狂歌を詠る賤民」として「もとの木阿彌」という人物であることが記されています。
この、もとの木阿彌は通称:大野屋喜三郎(本名:渡辺正雄)という名を持ち、京橋で風呂屋を営んでいた人物で、同時期に活躍した四方赤良(よものあから)の狂名を持つ大田南畝(蜀山人)とも親交があり、天明年間(1772~1789年)の狂歌の大家でした。
江戸期麻布氷川神社の元地(暗闇坂と狸坂をはさむ全域)時代に境内にあったと思われる「一本松」の事とするのは、麻布氷川神社が現在の社地に移転した萬治二(1659)年より100年以上も後のことで、この話のご神木とするのは時代的に無理があると思われます。
そこで、当時麻布内の最も有名であった稲荷社を探してみると、十番稲荷神社の前身である「末広稲荷」が思い当たります。
社の由緒書には、
慶長年間(1596~1615年)に創建され、元禄四(1691)年には坂下東方雑式に鎮座していたが、同六年永井伊賀守道敏が寺社奉行の時、 坂下町41の社域に遷座さた。往古より境内に多数の柳があり、「青柳稲荷」と称されていたが、後にその中の一樹の枝が繁茂し、扇の形を成していたことから 「末広の柳」とよばれるようになり、社名に冠され末広稲荷と称された。その後、明治二十(1887)年4月に末広神社と改称された。とあり、ご神木が柳の木ならば、この末広神社であった可能性もありそうです。
また、伊勢屋稲荷に犬の....といわれるほど江戸には多くの御稲荷さんがありましたが、麻布域においても多数の稲荷社が存在し、昭和初期から戦争前までは港七福神巡りの前身となる「麻布稲荷七福神巡り」が流行り、麻布稲荷七福神巡り専用の乗車券などが販売されていたそうです。
戦前の麻布稲荷七福神巡拝券(表) |
戦前の麻布稲荷七福神巡拝券(裏) |
★関連項目
・一本松
・麻布氷川神社
・十番稲荷神社
・耳袋
・十番稲荷神社(末広稲荷神社)
・港七福神(麻布稲荷七福神巡り )
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