今回は「大東京猟奇」という書籍から宮村町にある「狐坂」の由来をご紹介します。
明治の初年頃までこの辺りに一匹の化け狐が住んでいて、そばにある狸坂の狸と化け比べを競っていたそうです。
狐というと何故か女性に化けるものと相場が決まっていますが、ここの狐もやはり美しい娘に化けたといわれます。
夜更けになると、この辺りに何処からともなく美しい娘が人待ち顔で現れ、ほろ酔い気分でこの坂を通りかかった若者など が下心を持って声をかけると、むやみやたらとこの辺りを引っ張りまわされ、ヘトヘトに疲れ切ったところで、坂下の溝の中に放り込まれたそうです。そして「アバヨ!」と言うと、突然娘は姿を消してしまったといい、こうした手痛い目にあった者が随分少なくなかったので、この坂を「狐坂」と呼んで用心したものであったといいます。
もし、この時代に私が生きていたら、間違いなく溝にはまっていたと思われる。(^^;
私が中学生の頃、この辺りで夜、身長180センチくらいの和服の「オカマさん」に呼びとめられた事がありましたが、今思うとあれは、趣味の違う狐だったのかもしれません.........。
この狐坂は別名大隅坂ともいい、これは、坂上に江戸初期ころに渡辺大隅守綱貞の屋敷があったのでついた坂名です。そしてこの山全体も大隅山と呼ばれました。
文政町方書上によると 、
「町内西の方を里俗に新道とも大隅山とも唱え申し候。この儀は、同所にお役名しれず渡辺大隅守様お屋敷これあり候。これにより右よう相唱え候。」とあります。
渡辺大隅守綱貞は近江の国に1,000石を知行する旗本で、寛文元年(1661年)より寛文13年(1673年)まで第5代の南町奉行を勤めました。大隅守が町奉行在任中、医者が訴訟を起しました。
ある医者が5両でライ病の患者を治療した。そしてだいぶ病状も良くなったのでそろそろ治療代を払うように請求した。しかしこれに患者は応じず、まだ直っていないので払う事は出来ないと応じなかったので医者は町奉行所に訴訟に及んだ。双方から言い分を聞いた大隅守は、患者の顔を見るとまだ治っているとは思われないと思ったが、約束なので患者に5両を医者に払うよう命じた。しかし、患者は病気で金を使い果たしてしまい、とても払う事が出来ないと訴え、もっともな事と思った大隅守は働いて返せといった。しかし患者はこの体では雇ってくれるところが無いと言い、大隅守もその言に納得した。しばらく考えた大隅守は医者にその患者を雇って労働で返させてみてはと提案した。しかし、医者はこんな病人を使う事は出来ないと即座に返答したため、大隅守は医者を大声で怒鳴りつけた。自分でも使えないような病人に治ったと言い張るのは詐欺である。よって治療代は支払う必要がないと判決を言い渡し、医者は治療費を諦めることとなったという。
この後、渡辺大隅守は宇和島藩・吉田藩の境界騒動、玉川上水の修復、隠れキリシタンの詮議などの裁決を行い寛文13年(1673年)大目付へと転任しました。しかし1680年に将軍家綱が嗣子のないままに死亡し新将軍綱吉が誕生すると将軍継嗣問題で有栖川家から将軍を迎えようとした酒井忠清が失脚し、越後騒動の再審議が行われた後に「重き約儀にありながら陪臣として曲事あり」として延宝9年(1681年)渡辺大隅守も松平光長との癒着を疑われ八丈島に遠島処分となりました。さらに長男で書院番相馬広綱は陸奥中村へ、次男中奥小姓渡辺綱高は飛騨高山、三男書院番平岩親綱は下野黒羽へお預けとなりました。渡辺大隅守はその後72歳まで配所の八丈島で生を全うしたといわれます。(一説にはこの判決の後、渡辺大隅守は遠島の処分を不服として自決したともいわれます。)その後屋敷跡は幕府の賄組屋敷となりましたが、320年を経た今でもこの山を大隅山と呼び、その山に登る坂を大隅坂と呼び、その名を残しています。
また、江戸期この大隅坂下から狸坂下までは「宮村新道」とよばれていました。
宮村町狸坂下から狐坂(大隅坂)登り口近辺まで(現在の港区元麻布二丁目、三丁目の境界)を里俗に宮村町字宮村新道(または新道)といいました。この地域は正面に大隅山山塊、南に麻布山山塊、北に内田山山塊に囲まれた谷間の道で、まさに「宮村Valley」です。
「文政町方書上」は、
町内西の方を里俗に新道とも大隅山とも唱え申し候。この儀は、同所にお役名知れず渡辺大隅守様お屋敷これあり候。これに右よう相唱え候。その後、上り地に相成り、貞享三寅年お賄組屋敷に相渡り申し候。また新道から西に登る坂を、
右同所一か所新道西の方南の通りにこれあり、里俗狐坂と唱え申し候。と記しています。
近代沿革図集には江戸期~1924(大正13)年までは現在の坂に沿って大隅山側にさらにもう一つの坂がみえます。しかし、1933(昭和8)年の地図ではこの坂は消滅しています。もしかしたら、この二本の坂は、一方が「大隅坂」、さらに他の一方が「狐坂」であった可能性も否定できません。
・「三」がキーワード?
字域はほぼ宮村で所属も宮村町ですが、他町会との接点が
・狸坂に面した南側坂下までは一本松町にあり、
・狐坂登り口付近から上は三軒家町
①宮村町の三町が入り組んでいます。 また、
②一本松町
③三軒家町
①内田山の三山に囲まれた谷地(Valley)でもあり、そしてその三山には、
②大隅山
③麻布山
①大隅山と内田山のぶつかる山裾を流れる長玄寺池水流狸坂下は長玄寺裏手の池を源とする長玄寺池水流とがま池を水源とするがま池水流の合流点で、ここで一つとなった宮村水流はさらに、竜沢寺の先で十番通りを北に横切り、吉野川(芋洗坂水流)、ニッカ池、原金池方面から流れる細流と合流して十番通り北側を通りに沿って東進し現在の浪速屋付近で右折して本通りを流れる川(十番大暗渠)となって網代橋を越え古川に流れ込みます。 この狸坂下合流点を「文政町方書上」は、
②麻布山と大隅山のぶつかる山裾を流れるがま池水流
③それらが合流する宮村水流の三水流
石橋一か所 渡り長さ四尺 巾三尺町内西の方新道境に横切り下水の上にこれありと書いており、宮村町内で唯一の石橋があったことが記されています。
谷道から尾根道へつなぐ坂を歩くと武蔵野台地の最先端部を感じ、「あざぶ」の語源の一つとも考えられる「崖地の辺の意」また、続地名語源辞典による「東京都港区の麻布は麻の布ではなく当て字で意味は不明だが「日本アイヌ地名考」の山本直文説ではアイヌ語残存地名でasam(奥)の意で東京湾が広尾、恵比寿まで入り込んでいた時代につけられた名との説なども宮村新道付近では納得のいくものに思えます。
お伝えしてきた狐坂ですが、実はこの坂の中腹にある市谷山長玄寺あたりから見る夕暮れの東京タワーはたいへん美しく、私の気に入った場所でもあります。私が少年であった昭和40年代前半、東京タワーはどこからでも見えました。しかし、最近は東の方向にはビルが建ち並び、へたをすると坂上からも見ることが出来なくなってきました。そんな折、数年前に映画「三丁目の夕日」のポスターを目にして以来、宮村町に行くと必ず立ち寄るスポットとなりました。余談ですが、少年期にはやはり坂上などで夕暮時に赤くなった富士山も見ることが出来ましたが、こちらはほとんど絶望的な状況となっています。
昭和40年代くらいまでこの宮村新道には商店が密集し、日常的な買物などはここだけで済みました。このような小さな商圏はそこここにあり、コンビニが発達した現在よりも、考えようによってはさらに利便性が高かったのかもしれません。
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