2012年11月8日木曜日

冨永金左衛門の化け物退治

寛文十一年(1671)年頃、榎坂(現在の飯倉交差点付近)に冨永金左衛門と言う名の、兵法の達者な浪人が家を借りて住んでいました。
榎坂 坂下
その借家には、毎日夜がふけると何者かが来て、寝ている金左衛門を悩ませたといいます。

不思議な事と考えた金左衛門は「これは人間ではなく、狐狸か猫またなどの化け物の仕業に違いない」と思いある夜、床をのべるとあたかもその中に自分が寝ている様な形に整えて部屋の片隅で何者かが現れるのをじっと待っていました。
しばらくすると、両目が月日の如く輝き、すさまじい形をした化け物が現れて布団の上を富んだり跳ねたりしはじめたそうです。
この時を待っていた金左衛門は、その化け物めがけて刀で切りつけると確かな手ごたえがありました。そして、深手を負った化け物が竹すのこの下に逃げ込んだところを二の太刀で仕留め、行灯を近づけて化け物を見て見ると大きな古狸であったそうです。

この夜中の大騒ぎを聞きつけた近所の者達が何事かと駆けつけると、金左衛門は事の顛末を語りました。すると人々は「これはお手柄、さすが兵法の達人だ。」と褒め称えたので、金左衛門は気を良くして、夜が明けるとその古狸のを玄関先にぶら下げて往来の人に見せました。

しかし、集まってきた人々は「こんな人通りの多い市中に狸などいるものか、おおかた麹町あたりから買ってきた物だろう。」と口々に悪く言い合ったそうです。そしてその悪い噂は一人歩きして瞬く間に近隣に広がり、金左衛門もその家に住み辛くなってついに何処へか引っ越して行ってしまったといいます。

榎坂 坂上
その後永い間その家には借り手がまったくつかず、よくよく考えると金左衛門の狸話は本当であったのだろうと、人々は噂しました。本来、金左衛門は「近代稀に見る剛勇の者」という名誉を受けるべきところ、御政道さえ疑う世の中となったために、身上の妨げとなってしまったというおはなしでした。

この話は「老媼茶話」に書かれていますが、やはり榎坂は狸穴辺なのでできた話なのでしょうか。また、狸退治の日が寛文十一(1671)年亥正月十五日と克明に記されているのが面白いですね。








★榎坂(えのきざか)


○江戸鹿子
かわらけ町へ下る所の坂である。榎があるので、そう呼ぶのであろう。この榎は今番小屋の後ろに見える。




○文政町方書上
登り長さ三十間、飯倉町六丁目の家前の往還で、東は飯倉町二丁目・三丁目、里俗四つ辻から西の方へ上る所である。
町屋とならない以前、大きな榎があったので、里俗に榎坂と呼んできたと伝える。








榎坂今昔
















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