2012年11月24日土曜日

森元三座


明治維新の後、森元町内に森本座・高砂座・開盛座のいわゆる「森元三座」と呼ばれた劇場が、現在の東麻布イースト商店街付近にできました。
東麻布イースト商店街
これらの劇場は、城南地域に芝居小屋が無かった事から、近隣の盛り場「飯倉四辻土器町」の人出を見込んで、開場したそうです。どん帳芝居と称して、引き幕廻り舞台をゆるされないにもかかわらず、当初は大繁盛であったといいます。
当時、歌舞伎の桟敷で一人84銭であるのに、この三座は8銭と格安であったため山の手以外に下町からも客が集まった。また内容も当初は茶番のような物であったそうですが、のちに有名な役者も名を変えて出演しました。しかし芝居の適地でなかったようで、明治35年(1902年)ころには三座とも跡形もなかったと言われます。


この森元三座について麻布区史は、

明治の中期、当町には森元座、曙座等の劇場があり、女優や旧劇の女形などが住んでいたとは、これも付近に居住した文士小山内薫氏の語るところである。

とあり、また岡本綺堂著「明治劇談-ランプの下にて」という書籍の中の鳥熊の芝居という項では、


三座の名残?萬盛館
いつの代にも観客は大芝居の客ばかりでない。ことに活動写真などというものの見られない時代であるから、それらの小芝居も下級の観客を迎えて、皆それぞれに繁昌していた。今これを語っている明治十八、九年頃に、小芝居として最も繁昌していたのは、牛込の赤城座、下谷の浄瑠璃座、森元の三座などで、森元の三座とは盛元座、高砂座、開盛座をいうのである。わたしは盛元座と高砂座へたびたび見物に行った。木戸銭は三銭ぐらいで、平土間ひらどまの大部分は俗に“追い込み”と称する大入り場であったから、腰弁当で出かければ木戸銭のほかに座蒲団代の一銭と茶代の一銭、あわせて五銭を費せば一日の芝居を見物することが出来たのである。盛元座の座頭ざがしらは市川団升、高砂座は坂東勝之助で、団升も勝之助も大芝居から落ちて来た俳優であった。

と記しています。








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