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奉行所欺してホウビ
江戸の頃、麻布の裏長屋に、親孝行な浪人兄弟が住んでいました。
兄弟は力を合わせて手内職に精を出しましたが、暮しは貧しく、ときには自分達の食事を割いて、母親だけ食べさせる事もあったそうです。そして
お金さえあったら、もっと母親に楽をさせてあげらるのにと兄弟は、ただお金のない事を嘆いていました。
ある日、外から帰った兄は思い余って突然弟に、自分をキリシタンの信者だと訴えれば褒美のお金がもらえ、母親に楽をさせられると持ちかけました。
すると弟も、目上の兄を訴えては天罰が下る。自分を訴えてと兄に頼み、両者とも譲らなかったそうです。
しかし、一度言い出すと主張を曲げない性格の兄に「おいさき短い母親のためにこの命を捧げるのも、惜しくは無い。」と言われると、とうとう弟も根負けしてしまい、弟が兄を訴えることに決まりました。
当時キリシタンの信仰は禁制で、幕府は信者を取り締まりる為に、密告者には褒美を出す制度を設けていました。
数日後、弟は奉行所に「恐れながら、私の兄はキリシタンの信者です。」と兄を訴え、兄はすぐに捕まり牢獄に入れられました。
投獄されると、仲間の信者を言うようにと拷問をかけられ火責め、水責が毎日続きました。しかし兄はただ自分はキリシタン信者だと繰り返す
ばかりで、いっそう激しい拷問にかけられたそうです。
弟の方も、兄が信者ならば弟も怪しいと疑いをかけられたそうですが、訴人ということで詮議を免れ、奉行より銀100枚を褒美にもらいました。
そのお金で念願だった母親に毎日御馳走を振るまい、母に心配をかけないように、兄は大きな仕事で他国に出稼ぎに行ったと偽ったそうです。
しかし母親は、弟の態度からどうもおかしいと不審を抱きはじめました。そんなある夜、褒美の大金を母親に見つかり、とうとう弟は一切を打ち明けました。すると母親は兄弟の孝行心に涙を流して感謝しました。しかし嘘をついてまでの孝行は、真の孝行では無いと弟を諭し、今からでも
奉行所に本当の事を打ち明け、素直に罪を償えと涙ながらに訴えました。
次の朝、弟は奉行所に行き、親孝行するためのお金欲しさに兄を信者に仕立て上げてしまったと、自首をしました。
役人はすぐに兄を牢から出して、弟に対面させました。弟が母親に打ち明けた事を知らない兄は、まだ自分は信者だと言い張り弟は頭がおかしいとまで言って、自分を犠牲にしようとしましたが、昨夜の母の言葉を弟から聞かされると、自分の孝行心の間違えを悟り、ついに弟の言い分を認めました。
奉行所でもキリシタンのお唱えも知らない兄に疑問を持っていたところだったので、弟の言い分に納得してすぐに上役に報告し、この度の罪を改めて吟味する事になりました。
その結果、兄がキリシタンである確証は無いが、公儀を偽った罪は重く、死罪にも値する。しかし親孝行のため、はりつけの刑を覚悟の上で嘘をついたのは、まれに見る孝行心の厚さからだと罪を許され、かえって褒められました。牢を出された兄は、町役人の樽屋藤左衛門に預けられ、後に無罪放免となりました。このあと、改めて兄弟の孝行心に対し、宗門改奉行、井上筑前守からは、金子10両、町奉行、加賀仙民部少輔から金子1枚、籠奉行、石出帯刀から金3両、樽屋藤左衛門から3両の褒美を授かりました。そしてこの話はたちまち江戸中に広まり、会津若松藩主、保科肥後守正之は兄弟の孝行心に感激して家臣として召抱えたといいます。
この話を読んでから、麻布区史、新修港区史などで「町役人の樽屋藤左衛門」(おそらく町名主?)を探しましたが、見つけることはできませんでした。しかし「麻布区史」の第4節「孝義の表彰」には、享保五年(1720年)から孝義を褒賞する制度が将軍吉宗により定められ、麻布でも下記の方たちが褒賞されている事がわかりました。
○市兵衛町平七
寛政3年3月17日に家主の平七は、借地人伊勢屋惣右衛門への多年の親切に対して、御褒美として白銀五枚を下賜された。
○今井寺町藤助
寛政4年2月25日、家持孫八の召使藤助は主人に対しての忠義の厚さから、褒美として白銀五枚を賜った。
○飯倉新町ゑつ
文政6年5月21日、夫への貞節をもって、町奉行榊原主計より鳥目七貫文を褒賜された。
○桜田町寅吉
文化8年4月26日、九歳の少年寅吉は、両親への孝養により根岸肥前守より鳥目十貫文を下賜された。
○飯倉四丁目金之助
文政8年12月22日、喜八店印判職人馬之助の倅金之助15歳は、幼年の身を以って父並びに祖父母への孝養から筒井伊賀守から鳥目5貫文を賞賜された。
○服部眞蔵
天保15年12月26日、麻布狸穴町儒業者、服部南郭の倅で浪人の眞蔵は家業精励をもって、銀20枚を下賜された。