2008年12月4日木曜日

麻布トライアングル

前回、「謎の地図看板」の文中で、麻布氷川神社だけでは鎮められなかった「怨念」を、「増上寺院居所(隠居した増上寺の管主の住まい)の高名な僧の力を借りて、双方から封じ込めた」という私説を披露しましたが、今回はその続きです。そして前回同様全く根拠のない邪説とお考えのうえ、お読みください。

氷川神社前の通りを暗闇坂方面に向かい元麻布ヒルズを少し超えたあたりに関ヶ原合戦の際の「首塚」があったと思われるのですが、この首塚は1,000以上の首を埋葬したにもかかわらず、現在までその痕跡はまったく発見されておりません。
前回ご紹介した 「武徳安民記」をもういちどご紹介すると、

慶長五年八月二十八日岐阜より使節参着して、再び尺素を献じ、首級をささぐ。其の員数福島左衛門大夫四百三十、池田三右衛門四百九十、淺野左京大夫三百八--中略--を大桶に入れて到着す。家康即ち実験し浅布の原に首塚を築き之を埋め、増上寺源誉玉藏院忠義に命じ供養せしむ

とあります。これまでの私の説はこの「武徳安民記」の文中における「浅布」を麻布と仮定しての説ですが、現在の「麻布」という字が一般的に使用されるようになったのは江戸中期頃であり、それまでは阿佐布、麻生、浅府、安座部などと多様に表されていたようなので、本当に現在の麻布である確証はありません。(広い意味ではあそう、あさう)なども同義と言われています(詳細は「DEEP AZABU-麻布の由来」を参照ください)
しかし麻布区史、港区史などには、

・「麻布西町6番地辺」麻布区史(986ペ-ジ)
・「元スエ-デン大使館東前あたりに慶長五年 首を埋めたという首塚があり、戦前 まで家が建たなかった。」港区史(上)216ペ-ジ
・「このあたりに慶長五年首を埋めた首塚があるともいうが麻布西町らしい。」港区史(上)218ペ-ジ 

などとあり、両書とも「首塚」の存在を肯定しています。
 麻布西町6番地辺とは現在の元麻布1丁目3番地あたりとなり、前回お伝えしたように増上寺院居所と麻布氷川神社の中間くらいの位置となります。そのため増上寺隠居所と麻布氷川神社が怨霊を鎮めたのでは?と書いたのですが、しかし、よく考えるとさらに麻布山善福寺を入れると、ほぼその中心部に「首塚」が存在していた場所があった事となり「麻布トライアングル」が完成します。
一辺が暗闇坂上の増上寺隠居所、もう一辺が麻布山善福寺、さらに一辺が麻布氷川神社になります。そして首塚は、その三角形のほぼ中心部となります。これって偶然でしょうか?
もっとも、関ヶ原の戦いが行われたのは1600(慶長5)年9月で、氷川神社が移転した(させられた?)のは1659(万治2)年ですから、首塚の設置から麻布氷川神社の移転まで60年あまりが経過しています。
この間の事なのかはわかりませんが、『怪談老の杖』巻之二「くらやみ坂の怪」には、
暗闇坂上の屋敷の崖が崩れ人を葬った石棺が出土した。そして中に矢の根の腐り固まったようなものや白骨などがあり、また埋め直した。その後、下女の失神や主人の祖母の急死など怪異が起こり、祈祷をしたがその後は異変は起こらなかった。
などとあり、首塚との因果も時期も不明ですが、怪異が起こっています。
さらに先日おもしろい新聞記事を見つけました。新聞は1924(大正13)年3月21日の朝日新聞で、そのなかにある広告なのですが「首塚」があったとおもわれるあたりを箱根土地開発(のちのコクド=西部グループ)が分譲する広告です。あのあたりとしては、かなり大規模な分譲だったようで、3,500坪あまりが分譲されたことがわかります。この工事で塚が密かに破壊されたのかはわかりませんが、現在まで「麻布の首塚」が不明なままとなっているのは確かなことです。
まだまだこの他にも、麻布にはたくさんの「不思議」が、解き明かされるのを待って、静かに眠っています..........。


※タイトルの「麻布トライアングル」と聞いて、おっ!?っと思われた方は50代以上の方だと思いますが、これは1970年代にバミューダ・トライアングルにちなんでマスコミなどで呼ばれた「がま池」・「一本松」・「逆さいちょう」を結ぶ三角形の心霊スポットを指します。